神聖かまってちゃん『僕の戦争』

神聖かまってちゃんの『僕の戦争』が、Billboard Japan Top Download Songs ランキング 1 位、オリコン デイリーデジタルシングルランキング 1 位にチャートインした。

『僕の戦争』は、TVアニメ『進撃の巨人』The Final Season のオープニングテーマであり、2020年12月にアニメの放送が始まり、その TV size 音源が配信されるや否や、巨大コンテンツである『進撃の巨人』と共に海を渡り、日本以外の国からも大きな反響を呼んだ。様々な国のリスナーが『僕の戦争』のカバー動画を YouTube に UPしたり、歌詞を分析したりと、その熱狂ぶりが伝わってきた。


この世界中から熱視線を集めている『僕の戦争』とは、一体どういう曲なのか。

まずは、『僕の戦争』が神聖かまってちゃんの曲の中でどのような位置にある曲なのか、という観点から考えてみたい。

これまでに10枚のオリジナルアルバムをリリースしている神聖かまってちゃんには、実にいろいろな方向性の曲がある。ギターロック色の強い曲もあれば、J-POP的な曲もあれば、インストもあれば、ドリームポップの要素を取り入れた曲もあるのだが、この中で最後に挙げた「ドリームポップの要素を取り入れた曲」こそが、神聖かまってちゃんを神聖たらしめてきた、ホーリーな世界観を創ってきた曲たちである。『白いたまご』『黒いたまご』『コンクリートの向こう側へ』『ロボットノ夜』『まいちゃん全部ゆめ』などの幻想的な曲たちによって、神聖かまってちゃんはライブにおいてもディープでホーリーな世界を構築し、人々を魅了してきた。

そして、今回の『僕の戦争』も、この「ドリームポップの要素を取り入れたホーリーな世界観の曲」に分類される曲だ。また、神聖かまってちゃんが『進撃の巨人』に曲を提供するのは今回で二度目なのだが、一度目の2017年に放送された『進撃の巨人』Season 2 にエンディングテーマとして提供された『夕暮れの鳥』もまた、ここに分類される曲であった。

これらのことから分かるのは、神聖かまってちゃんは『進撃の巨人』に曲提供をするとき、大衆を意識したり、漫画やアニメ作品に曲を寄せていくのではなく、むしろ神聖かまってちゃんの一番ディープな部分を爆発させてくる、ということだ。それは、神聖かまってちゃんのファンを公言している『進撃の巨人』の作者・諫山創に対する、最大限のリスペクトの形なのかもしれない。両者の信頼関係があるからこそ、一番自分たちらしい表現、自分たちにしかできない表現を、飾ることなくぶつけ合うことができているのだろう。そしてその結果、『夕暮れの鳥』や『僕の戦争』は、『進撃の巨人』に寄せてつくられたわけではないにも関わらず、その世界観は見事に『進撃の巨人』とシンクロした。

このように、世界観や方向性としては『夕暮れの鳥』と同じである『僕の戦争』だが、この曲には『夕暮れの鳥』にはなかった仕掛けがなされていた。
『夕暮れの鳥』は全編英語詞であり、当初 TV size 音源として公開された『僕の戦争』も英語詞だったのだが、その後公開されたフルサイズの『僕の戦争』で、曲の後半部分は日本語詞で歌われていることが明らかになったのだ。

前半の <Let’s start a new life from the darkness> から始まる英語詞の部分では、ここがダークな世界であるということや不気味な雰囲気が漂っているということが、抽象的な言葉で綴られている。対して、そこから華やかな光が射してくるような鍵盤の音が鳴る間奏を経た後の日本語詞の後半部分は、<帰り道> <下校時間> <鳴きだすチャイム> <宿題> など、明確に「学校」や「学校に通っている子ども」について歌っていることが分かる歌詞になっている。それはまるで、壮大なダークファンタジーの世界から、間奏というトンネルを抜けてワープした先が日本の学校だった、と思わせるよう構成になっている。ダークファンタジーと日本の学校は、この曲の中でパラレルワールドのようであり、それと同時にまるで同一の世界のようにも感じられる。

そのため、最後まで聴くと、前半部分の <Fear(恐怖)> <hatred(憎悪)> <sorrow(悲しみ)> < desperation(自暴自棄)> といった抽象的な言葉はどれも、ひとりの子どもが学校に対して感じているものだということに気づく。そして、その「ひとりの子ども」というのは、の子(Vo/G)自身のことでもある。の子は、神聖かまってちゃんは、ずっと「学校」というものに対する決して拭い去れない嫌悪や、そこで起きた忘れられないトラウマを曲に昇華してきた。『学校に行きたくない』や『通学LOW』といった曲にはそれが特に強く出ている。

学校を辞め、ニートを経て、音楽とインターネットによって生きてきたの子にとって、「学校」というものに対する感情は表現への大きな原動力になっている。そして、の子がそれをぶちまけることによって、神聖かまってちゃんの曲は多くの同じ立場にいる日本に暮らす若者の支えとなってきた。そんなの子の「学校」に対する感情を元にした表現が、いま海外にまで届いているというのは二つの意味で感慨深い。

ひとつは、神聖かまってちゃん神聖かまってちゃんのままで世界に届いたという点だ。神聖かまってちゃんが一番歌いたかったこと、一番やりたかった表現が、濃度が薄まることなく海を越えて多くの人に伝わったことは、本当に素晴らしいことだと思う。

もうひとつは、『僕の戦争』の仕掛けである、前半の抽象的な英語詞から後半の具体的な日本語詞という構成によって、日本の「学校」という閉鎖的な空間に、世界中から視線が注がれることになったという点だ。この曲の最後が、「学校に行かない」とか、「学校から逃げる」といった表現ではなく、<明日の準備がどうせまたあるし/宿題やって寝なくちゃね> という、悪夢が続いていくような表現になっているのは、子どもたちが閉鎖的で簡単には逃れることができない空間と日常に閉じ込められていることを表しているのではないかと思う。そこに世界中から視線が注がれるということは、閉鎖的な空間の内部では誰にも助けてもらえなかった子ども、またその記憶を持ち続けているかつての子どもにとって、一筋の光になり得るのではないだろうか。

また、学校の悪夢が歌われているこの曲にドリームポップの要素が取り込まれていることによって、『僕の戦争』はさらなる効果を発揮していると思う。
なぜなら、私が思うに、ドリームポップやその一種であるシューゲイザーというのは、心が限界を感じているときに一番効く音楽だからだ。その洪水のような音楽には、打たせ湯のような効果や、辛い記憶を曖昧にしていってくれる効果がある。
『僕の戦争』の、弦楽器によるオーケストラや、聖歌隊や、地鳴りのように重く響くドラムによって創り出される幻想性と、勢いのある洪水のような音の流れもまた、その悪夢を薄れさせ、音の中に溶かしていってくれる。それによって、『僕の戦争』は、学校の悪夢にスポットを当てると同時に、その辛い記憶を持つ者の内側からは悪夢を押し流すということを両立させることに成功している。


このように、『僕の戦争』という曲は、神聖かまってちゃんの最もディープな部分であるホーリーな世界観を、かねてからの子の念願だった聖歌隊などの導入により、バンド史上最大の壮大さで世界に向かって放つことができた曲であると同時に、これまでにはなかった仕掛けによって、世界から日本の学校へ、ファンタジーから現実へと視線を誘導するという実験的なことをしている曲でもある。神聖かまってちゃんがメジャーデビュー11年目を迎える今も進化を続けているということが分かる曲なのだ。

最後に、『僕の戦争』についてもうひとつ特筆すべきなのは、いつもは叫んでいるの子の <This is my last war> という囁きだ。洪水のような音の中でその囁きは、矢のように胸に飛び込んでくる。そして、その矢はそれぞれの悪夢の中で、誰かにとっては覚悟に、誰かにとっては光に、誰かにとっては現実と向き合うことに、誰かにとっては現実から逃げることに、誰かにとっては呪いを解く呪文になるのだろう。目には見えない巨人のような何かに怯えるとき、悪夢にうなされるとき、神聖かまってちゃんが投げたその矢を持っていたい。それがあれば私たちはそれぞれの戦いに向かうことができるだろう。

※ この文章は 2021年3月30日に「音楽文」に掲載された文章を加筆・修正したものです。


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