People In The Box 『Camera Obscura』

バランスが変わった。
それが『Camera Obscura』を聴いた後、最初に抱いた感触だった。

2023年5月、約4年ぶりにリリースされた People In The Box(以下「ピープル」) の 8th Album『Camera Obscure』。
このアルバムは、寓話と隠喩によって強烈に現実を炙り出してきたこれまでの People In The Box の作品とは少し感触が異なる。今作においても寓話や隠喩はそこかしこに存在しているのだが、その隙間に剥き出しの現実がぼこぼこと乱立している。そのため、寓話と現実のバランスがこれまでと変わったように感じたのだ。そして、その炙り出すまでもなく乱立する「剥き出しの現実」は、まるで地響きの後に割れた地面の間から咲きこぼれた花のような生々しさと美しさと悲しさに満ちている。



『Camera Obscura』というアルバムタイトルや『水晶体に漂う世界』という曲名からも窺えるように、今作でも「視線」や「見る」「見られる」ということがひとつのテーマになっていることはまず間違いなさそうだ。「今作でも」と書いたのは、前作の『Tabula Rasa』においても「視線」がテーマのひとつだったからだ。そういう意味では『Camera Obscura』は『Tabula Rasa』の地続きにある作品だと言えるだろう。しかし、『Tabula Rasa』では当初自分が「見られる」側であったのが最後には「見る」側に反転して終わるという構造になっていたため、そこにはある種の希望があるようにも思えたのだが、『Camera Obscura』ではそうはいかないようだ。

まず、『Tabula Rasa』では「見る」主体となった自分というものが、『Camera Obscura』では最初から揺らいでいる。
だって、1曲目が『DPPLGNGR』なのだ。
ドッペルゲンガーとは、自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、自分とそっくりの姿をした分身のことも指す。しかも曲名の『DPPLGNGR』は、ドッペルゲンガー「DOPPELGANGER」という単語から母音が失われた、子音のみの表記になっている。この2点だけを見ても、すでに自分というものの半分が失われてしまっていることが窺える。ドッペルゲンガーによって、自分を構成していた母音のような部分が完全に失われてしまったのだろう。(※1)
そしてそれは、私に村上春樹の小説『スプートニクの恋人』に登場する「ミュウ」という人物を連想させる。「ミュウ」はある時、異国の遊園地の観覧車の中からドッペルゲンガーを見てしまったことで自分の半分を失い、性欲を失い、髪の毛が真っ白になってしまう。
この曲の最後の <また会えたね/別人だよ> というフレーズでは、<別人だよ> で突然声が本当に別人になったかのように変わるのだが、その唐突さと呆気なさと恐ろしさが、また私に「ミュウ」の幻影を見せる。髪の毛を黒く染めた「ミュウ」がどんなに見た目は以前と同じように見えたとしても、自分を半分失ってしまった者にとってはもはやそれは自分とは言えない「別人」なのだと、「ミュウ」にそう語りかけられているような気がしてくる。
また、2曲目『螺旋をほどく話』に登場する <表面上は前と同じさ> というフレーズからも、自分の中身が以前とは完全に違うものになっていることが示されているように思う。

では、『Camera Obscura』の中の人物は、一体なぜドッペルゲンガーを見てしまったのだろうか。
1曲目『DPPLGNGR』の冒頭から、<意味などないのに/気にしてしまうよ/あの視線を> と、「視線」というワードが提示されるが、この人物が「気にして」いる「あの視線」とは、ドッペルゲンガーからの視線のことなのだろうか。だが、この段階では、視線がどこからどこへ向かっているのか、どういったものなのかといったことは、まだ曖昧でよく分からない。(※2)
2曲目『螺旋をほどく話』では <視線や憂いは在ない幽霊さ > と、一旦視線の存在を否定してみせるが、それでもやはり常にどこからか視線を感じる。その後、戦争がはじまり、経済が石化し、スマート製品に人生を奪われ、そうこうして辿り着いた8曲目の『水晶体に漂う世界』を聴いたとき、ゾクっとした。視線の正体がなんとなく分かってしまったからだ。

< 視線を感じて振り返る、ララララ
ローリング、サウンド、カメラ、セット、アクション >

ドッペルゲンガーは自分が所有しているスマート製品の中にいる自分なのではないか、という考えが一瞬過ぎったのだ。
そう考えると、ここで言う「視線」とは、スマート製品のカメラに映る自分からの視線のことなのだろうか。
だとすれば、ドッペルゲンガーの問題は『Camera Obscura』の中の人物や「ミュウ」だけの話ではとどまらない。スマート製品を所有している私たち全員の問題だ。
私たちはスマート製品と生活を共にするうちに、いつの間にか自分の中身をスマート製品に明け渡してしまった。その結果、自分の半分は現実にいるが、もう半分はデジタル上、スマート製品の中(カメラロールやSNS等のネット上)にいる、という奇妙な現象を立ち上げてしまった。それはまさに自分の母音をスマート製品に奪われている状態であり、自分を半分失っている状態と言えるだろう。

だから、この曲には太陽の光に溢れた牧歌的なイメージを感じるにも関わらずどこかにずっと不穏が漂っているし、 <液晶は指に溶ける> というフレーズには、スマート製品の中に自分が吸い込まれていってしまうような怖さを感じる。そして、最後に <ステイ、気づかないふりをしていろ > と何度も言っているのは、気づいたことがバレてしまったら、こちら側の自分があちら側の自分に回収されてしまうからなのだろう。青空が広がる晴れた平和な白昼に、私たちはこちら側の自分まで奪われてしまいそうになる。そのことに気づいたとき、この曲の牧歌的な明るさは、まるで本当に危険なものは便利さや快適さや分かりやすさといった明るいものとして近づいてくる、と言っているかのようだと思った。

だが、ピープルは最後にそれを食い止めようとする。
『水晶体に漂う世界』の次の曲であり、アルバムの最後の曲である『カセットテープ』で、こちら側の自分があちら側に回収されてしまわないようになんとかしようとして、<窓の外は磁気の嵐/映画が人類(ぼく)を観ている > とデジタルに取り囲まれ「観られる」側になってしまっている状態から、<カセットをセットして/初めて音楽を聴く> のだ。
なぜなら、カセットで音楽を聴くことは、スマート製品とは関係ない場所に存在する事象であり、スマート製品から音楽も自分も分離させる方法だからだ。それは、再生回数やインプレッションがすぐに反映されて可視化される世界から音楽や自分を引き剥がすことでもあり、<いくら呼んでも返答のない世界> を生きることでもある。本来、答えなんかすぐに返ってこなくていいし、常に誰かの反応や視線なんか気にしなくていいのだ。私たちはただカセットプレーヤーから流れてくる音楽を聴いているだけでいいはずで、<目醒めて夜を待つ/ただそれだけでいて、いいはず > なのだ。

しかし、それでもなお、<意味などないけど/なぜあの視線を無視できない > と歌われるように、視線から完全に逃れることはできない。また、<優しいポルターガイスト/放っておいても問題ないよ> と繰り返し歌われるが、それを打ち消すようにカセットのテープは破損したかのように乱れ、やがて途切れてしまう。それは、ドッペルゲンガーの視線に気づかないふりをして、放って過ごしていても、いつかは捉えられてしまう、という風にも考えられるし、デジタル上にあるデータが劣化することはないが、現実にあるカセットテープや人間はいつか必ず衰え壊れていくということを示唆しているようにも思える。現実の方に存在していた音楽や人間が消滅しても、デジタル上にあるもう半分の音楽や人間は劣化しないまま、そこに存在し続けるのだ。それは改めて考えてみると、やはりちょっと奇妙なことだと思う。

そして『カセットテープ』を聴き終わる頃、この曲が1曲目の『DPPLGNGR』へと続いていることに気づく。
『カセットテープ』の <意味などないけど/なぜあの視線を無視できない> は、『DPPLGNGR』の冒頭の <意味などないのに/気にしてしまうよ/あの視線を> に繋がっているし、『DPPLGNGR』のイントロの磁気のような音やテープが乱れているような音は、『カセットテープ』の後の世界、カセットテープが壊れた後の世界のようにも聴こえる。

どうやら『Camera Obscura』は最後の曲と最初の曲が繋がり循環している世界のようだ。
そう気づいてから、もう一度最初からこのアルバムを聴いてみる。

すると、『DPPLGNGR』の <ここはどこだろう/帰りたいよ> という部分は、カセットテープが壊れずに存在していた世界に帰りたい、という風にも聴こえてくる。1周目に聴いていたときは、「ここ」や「帰りたい」場所がぼやけていたのが、2周目では「あの場所のことではないか」という心当たりが増えてきて、だんだんピントが合ってくるのだ。それから、<また会えたね/別人だよ> というフレーズも、1周目では上記(※1)(※2)の辺りで述べたように「なんらかの理由でドッペルゲンガーを見たことにより自分の半分を失ってしまったのだろう」と感じていたが、2周目では自分の半分どころかもう半分もスマート製品側に回収されてしまった、というようにも聴こえる。

そして『螺旋をほどく話』の <表面上は前と同じさ> を聴いた瞬間、ハッとした。
そう、表面上は、1周目に聴いていたアルバムと2周目に聴いているアルバムは全く同じはずなのだ。録音された同じ曲を同じ順番で聴いている。だが、全く同じはずなのに、循環している構造と1周目で感じたドッペルゲンガーの視線が頭にインプットされた状態で聴く2周目は、1周目とはまるで違うのだ。それは、まさに <また会えたね/別人だよ> を体現している。ヤバい。People In The Box はこれだからヤバい。ゾクっとした。

同じ曲を同じ順番で聴いているはずなのに1周目と2周目は違うし、2周目と3周目も違うし、3周目と4周目も違うし、そうやって私の中に立ち上がる『Camera Obscura』は永遠に変異していく。カセットを何度も何度も巻き戻して繰り返し聴いていけば、テープが擦れてやがて少しずつ音が変化していくだろう。それと同じように『Camera Obscura』も何度も何度も繰り返し聴くたびに、聴いた人の中で変化していく。スマート製品の中で永遠に変化しないデータであっても、人間が聴くことでその音楽は変化していくのだ。

だから、『カセットテープ』の最後のテープが乱れていく音も、今は希望だとも絶望だとも言い切れない。それはいつ聴くか、何周聴くかによって、その人間の中で姿を変えていくだろう。あるときは生々しくそこにある現実として、あるときはデジタルの側に全てを奪われていく感覚として、またあるときは今はまだ想像もつかない何かとして、私たちの中に現れるのだろう。




『Camera Obscura』を最初に聴いたときに感じたバランスの変化、その理由はピープルがこれ以上現実を奪われたくないと考えたから、そのためになんとかしようとしているからなのではないか、と何周もこのアルバムを聴いた今ちょっと思う。また、ただそこにある現実がデジタルに介入されることなくそのまま存在していてほしい、「スティグマ」なしでそのまま受け入れられてほしい、という願いにも思える。

それが特に表れていると感じたのが、『戦争がはじまる』で歌われる、
<それは壁じゃなくて/開かない窓>
<それは石じゃなくて/割れない卵>
というフレーズだ。これは、本当は「開かない窓」なのに「壁」だと思われてしまっている、本当は「割れない卵」なのに「石」だと思われてしまっている、ということで、それはつまり現実が正しく伝わっていない、偏見によって誤解されてしまっているということなのではないかと思う。
そしてそれがピープルが現時点で認識しているこの世界の現状なのだろうし、これから先、人間は、自分の半分を失いながら、電磁波に囲まれながら、正しいのか正しくないのよく分からないデータの洪水を浴びながら、壁のように見える開かない窓を、石のように見える割れない卵を、偏見を排除して見極めることができるようになるのか、という問いかけにも聴こえる。

おそらく私は、開かない窓や割れない卵を見極めようとして、これからも People In The Box の曲を聴くだろう。何もかも奪われそうになったとき、現実をこの手にとどめておきたくて、何度も何度もカセットテープを巻き戻し、People In The Box を聴くだろう。この音楽が響いた後に割れた地面の間から咲きこぼれた花が放つ、スマート製品の中にはない、言葉にできない匂いが、私を現実にとどめてくれるに違いない。


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