再考 syrup16g 『 HELL-SEE 』

信じがたいことだが、syrup16g の『HELL-SEE』が発売されてからもう20年経つらしい。
2003年3月19日のリリースからちょうど20年、2023年3月19日には、20周年記念版として『 HELL-SEE 』アナログ版が発売となった。そして6月からは全国10箇所をまわるツアー “ Live Hell-See “ の開催が決まっている。

こんな未来がやってくるなんて、あの頃は想像もしていなかった。
ただ、あの頃から今に至るまで、『HELL-SEE』というアルバムは、折に触れてずっと聴いていた。
syrup16g のアルバムはそのどれもが私にとって特別だったが、
『HELL-SEE』はその中でも際立って独特の感触があった。
明るくもないが暗いだけでもなくて、生々しくリアルだがどこか夢の中のようでもあって、甘くてドロっとしているのに同時に赤く乾いてもいた。

『HELL-SEE』はリリースされた経緯もかなり特殊なものだった。
メジャーデビューした2002年に2枚のアルバム(『coup d’Etat と『delayed』)を立て続けにリリースしたシロップは、次のタイミングでシングルを出すことをレコード会社から求められたのだが、五十嵐はシングルという形態で出すことを拒み、シングルの予算でアルバムをつくるという無茶苦茶なことをやってのけ、その結果『HELL-SEE』は15曲入り1500円という破格の値段でリリースされた。また、本来アルバムをつくれるような予算ではなかったため、スタジオではなくレコード会社の一室でレコーディングしたというのだから驚きだ。

そんな経緯で生み出されたからこそ、この独特のローファイサウンドが形成されたのだろうし、当時から『HELL-SEE』の音やそこに渦巻く世界はあのジャケットの如く赤黒い特殊なオーラを放っていた。それは私のようなファンを強烈に惹きつけ、その代わりと言ってはなんだが、シロップの世間的な評価や立ち位置をメインストリームではなく「異端のロックバンド」といったものにしていったように思う。

だが、あれから20年経った今振り返ってみれば、五十嵐がシングルを出すのを拒んだことは、本当に意味のあることだったと思う。なぜならそれは「切り取り」を拒否することだったからだ。
そもそも五十嵐がシングルを出したくなかった主な理由は、バンドや自分自身の一面だけしか見てもらえないことが嫌だったから、ということらしい。アルバムだと10曲とか15曲といったボリュームでバンドや自分に色々な面があることを見せられるが、シングルだとそうはいかない。その1曲だけでバンドがジャッジされてしまう。それがどうしても耐えられなかったから、なんとしてもアルバムで出したかった、ということらしい。

その「自分の一部を切り取られて判断される」ことを徹底的に拒否する姿勢は、作品をつくり出す人間として実に正しいものだったと、20年経った今、私はより強く実感する。あの頃はまだ twitterTikTokYouTube もなかったが、結局どんなシステムや手段があろうと人間のやることや愚かさはそう変わらないのだということを突きつけられる。あの頃も SNS こそなかったが、人は「人の一部だけを見て都合よく切り取って判断する」ということを平然とやっていたし、五十嵐は作品を出す上でそのことに危機を感じていて、徹底的に拒否したのだと思う。それが本当に正しいことだったと今思うのは、「切り取られると大変なことになる」ということを、あれから20年を経た私たちは芸術家やクリエイターでなくとも知ることになったからだ。「一部だけを見て都合よく切り取って判断する」という愚かな行動がSNSを中心に急激に加速していった先で起きた、アレとかアレとかで。

もしかしたらシングルを出していた方がシロップは売れたのかもしれない。でも、それよりも五十嵐は、自分や自分のつくるものが切り取られずにまるごと存在し、受け入れられることを望んだのだ。

その結果、『HELL-SEE』というアルバムは20年という歳月を経ても錆びなかったし壊れなかった。今も15曲がひとつの生き物のように赤黒く蠢き輝いている。



また、『HELL-SEE』というタイトルは「healthy(健康)」と掛かっているわけだが、この「健康に生きようとすることは地獄を見ること」という一見センセーショナルな定義は、2000年代から現在に至るまで通底して存在する生きづらさやこの社会でなんとかやっていくことの困難さを、実に生々しく言い当てていると思う。

身体的にせよ精神的にせよ「なるべく健康であろう」とすることが行き過ぎた先で、健康でない状態や健康でない人が切り捨てられる、そんな漂白された世界は本当に「健康」と呼べるのだろうか。「健康」という言葉を、アルバムの中の1曲『正常』と言い換えてみるともっと分かりやすいかもしれない。『正常』には <使えないものは駆除し/排除されるよなぁ> というフレーズがあるが、「健康」とか「正常」といった枠を決められてしまうと、そこから溢れてしまった者は排除され、無き者にされてしまう。そして一度枠から溢れてしまうと、その枠の中に再び戻ることはとても困難だ。にも関わらず「健康に生きること」「正常に生きること」のみを強いられるのであれば、まさに地獄を生きるようなものだろう。本来、「健康」というのは人間の一時的な状態で、多面的な人間の一部でしかない。それなのに、「健康」のみが正しいとされてしまうのは随分息苦しいし、生きづらい。

今改めて『HELL-SEE』を聴くと、そうした同調圧力の中でこの作品は「健康」とか「正常」といった概念に対する距離の取り方をなんとか探ろうとしていたのかもしれない、と思う。また、その視点で聴いてみると、『HELL-SEE』はあらゆるものに対する距離の取り方についてのアルバムなんじゃないか、とすら思えてくる。

例えば1曲目『イエロウ』の

< 予定調和に愛を
  破壊に罰を
  誹謗中傷に愛を
  仕事しようよ >

というフレーズは、「予定調和」や「誹謗中傷」との距離の取り方を歌っている(これらと適切な距離を取ることは心の「健康」のために実に大事なことだ)し、

< 死体のような未来を 
  呼吸しない歌を
  蘇生するために
  何をしようか >

というフレーズの後で <イエロウ >(家籠?)と連呼しているのは、未来や歌を蘇生するために一旦家に籠るという、五十嵐流の距離の取り方のようにも思える。

また、2曲目『不眠症』では、人間関係の距離感を間違えてしまった結果、自分の距離感覚がおかしくなってしまった様が <くるったままの遠近法> と歌われているし、7曲目『月になって』では <掴めそうで手を伸ばして/届かないね永遠にね> という地球と月ほどの圧倒的な距離感が歌われている。

そして、この「距離の取り方」に関して特に絶妙な描き方をしていると思うのが、3曲目『Hell-see』だ。

< 戦争はよくないなと隣の奴が言う >
< 健康になりたいなと隣の奴が言う >

この「戦争はよくない」ことと「健康になりたい」ことが同列で、しかも自分が言ってるわけではなく「隣の奴が言っている」という距離感。
「戦争はよくない」に決まっているが、2003年当時は遠くの国の、2023年現在はそんなに遠くもない国の戦争を、誰にも、もちろん自分にも止めることができないという現実と、その戦争に対して自分がどういう距離感でいるのが正しいのかも分からない、この感覚。それは、9曲目『ex.人間』で歌われている <道だって答えます/親切な人間です/でも遠くで人が/死んでも気にしないです> という感覚とも同じものだと思う。「親切な人間」であろうとすることと、どこまで遠くの人のことまで気にかけることができるのかという、その矛盾や距離感の難しさに頭を抱えたり開き直ったりする人間の現実が浮かび上がってくる。
そして、隣の奴の言葉を聞きながら、健康によくないであろうタバコに火をつけるという、アンビバレントなようで今この瞬間の現実の距離感。
これらの「戦争」や「健康」に対する距離感は中途半端なようにも見えるが、どちらか一方に振り切れてしまう方がよほど危険で、私たちは矛盾しながら様々な物事と適切な距離を取らなければ「健康」になんて生きられない。その現実と切実さが、スローで重みのある三人の演奏から滲み出ているように思う。(この『Hell-see』や『正常』に見られる、スローで重みがあって何かが水面下で蠢いているようなところから後半に爆発するという syrup16g 独特のロックのかっこよさが、『HELL-SEE』というアルバムの赤黒い魅力の正体のようにも思える。)

それから、「テレビ」というものに対する距離感も興味深い。

< テレビの中では混み入った
  ドラマで彼女はこう言った
  話もしなくはないわ
それなら最初にそう言って >

< テレビの中では混み入った
  ドラマで彼女はこう言った
  話もしなくはないわ
そこだけ俺も同意した > ( 『Hell-see』)

< ロックスターがテレビの前で
  くるった振りをしてる
ロックスターがテレビの前で
  くるった振りがうまい   > (『ローラーメット』)

メディアによって編集された世界や、現実ではない作られたフィクションであるドラマを見て、「それなら最初にそう言って」とか「そこだけ俺も同意した」とか「くるった振りがうまい」とか、言わば現実の側からツッコミを入れている。切り取り編集され一方的に流されてくる情報にマジレスしている、その姿や距離感にはちょっと妙な感じというか違和感も感じる。でも、だからこそ、『I’m 劣性』で <テレビなんて Burst!> と叫ぶことで、テレビとの距離を離そうとしているのかもしれない。

それに、考えてみれば、私たちは「戦争」や「健康」についての情報もテレビから得ている。特に2003年当時は、911の時のテレビの映像の記憶が鮮明にあった時だ。「戦争はよくないな」とか「健康になりたいな」とか、どこか他人事で、深刻の度合いが違うものを並列にしてしまう感覚は、もしかしたらテレビのよってもたらされたものなのかもしれない。そう考えると、<テレビなんて Burst!> というのは、そういった狂った距離感覚(くるったままの遠近法)そのものに対して吠えているものなのかもしれない。そしてこのときは「テレビ」だったが、今私たちの距離感覚を狂わせているものはほかにも無数にあって、私たちはそれらにマジレスしている自分を客観視し、それらを<Burst> して遠ざけることが必要なのかもしれない。



20年前からとっくに末期症状で、20年前からずっと家に籠っていたかった私には、今もあらゆるものとの距離の取り方がよく分からない。人との距離の取り方も、社会との距離の取り方も、戦争との距離の取り方も、健康との距離の取り方も、SNSとの距離の取り方も、よく分からないままだし、年々ますますよく分からなくなってきている。

そんなとき『HELL-SEE』を聴くと、そこには距離の取り方がよく分からないままのたうちまわっている人間の姿がある。自分の一部だけを切り取られるのなんか絶対に嫌で、全部を受け入れてほしくてのたうちまわる人間の姿がある。そう、五十嵐は『HELL-SEE』において、「よく分からない」状態ではあるが、根幹の部分では何もかも諦めていない。その底の方から湧き上がってくる何かが、今も何もかもよく分からない私を突き動かす。そのよく分からないドロッとしたものと、三人の音が重なったときの何とも言えないかっこよさを感じるたびに、これだから syrup16g というロックは簡単には滅びないのだ、ということを確信する。何十年経とうが、何百回目だろうが、このバンドは私の根幹を突き動かしては、生々しい暖かさを残していくのだ。


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