CRYAMYと心 - 1st Full Album『CRYAMY -red album-』-

真っ赤なジャケットの真ん中に、無数の黄色い線でハートの形が描かれている。
CRYAMYが今年3月にリリースした 1st Full Album『CRYAMY -red album-』は、その細い無数の黄色い線のように複雑で厄介な「心」というものに肉薄しようとする、無謀さと情熱が渾然一体となった赤い塊のようなアルバムだ。

『ten』から始まり『テリトリアル』で終わるこのフルアルバムは、2018年にリリースされ現在は廃盤となっている『CRYAMY#2』に収録されている5曲を軸に、新曲7曲も収録された、全16曲入りの作品となっており、CRYAMYの活動初期から現在までの軌跡を辿ることができるベスト盤のようでもある。『CRYAMY#2』を買い逃していたファンにとっては待望の、バンドにとってはこれまでの数年間の歩みを詰め込んだ、いつか「赤盤」と呼ばれるようになるであろうこのCDがついにリリースされたのだ。

そんな待望のフルアルバムは、カワノ(Gt/Vo)の <確証のない愛を/癖になって唱えていた>(『ten』)という叫びから始まるのだが、その主観のみで世界を泳いでいるかのような、不安定さや孤独や危険が垣間見えるこの叫びは、聴く者をCRYAMYの国へと引きずりこむトリガーとして機能していると同時に、このアルバム全体に通底する視界を端的に表している。

CRYAMYの歌詞というのは、カワノの黒目の動きが捉えたものがそのまま言葉に変換されたようだと感じることがよくある。そこになるべく嘘や装飾がないようにするためだろうか、時に露悪的だと捉えられかねないほど、目にしたものや心の動きを実直に言葉に変換していく様に思わず引き込まれてしまうわけだが、そうやってカワノの目の動きが言葉に変換された歌詞がメロディーに乗るのを聴いていると、いわば彼の主観を追体験しているような感覚になってくる。そうやって、アルバム全体を通じてカワノの主観の海を泳いでいるときの視界をまざまざと追体感していく中で、特に主観が強く表れていると感じたのが「優しい」「優しさ」といった言葉だった。

<ざらつく指先で綺麗な髪を/優しく撫でたその瞬間に>
<いつでも帰ってこれるように/優しく結んだ赤い糸>  (『ten』)

<昔褒められた「優しさ」は/つけこまれるだけの欠点にしかならん> (『鼻で笑うぜ』)

<誰より優しいことを嘘だとしても言えるから> (『ギロチン』)

<起死回生の文言を響かせたいと願っても
「もう良いんだ、もう良いんだ」って優しい人が僕に言う> (『twisted』)

<いつまで僕ら友達か? いつまで互いに優しくできるか?> (『兄弟』)

<神様の代わりに泣いてくれる優しい人が泣かなくて済む> (『完璧な国』)

<優しい気持ちで夜が明けるあの感覚を知っているから>
<優しい君ならなんて言っただろうね>
<簡単には言えないのが優しいことね>      (『優しい君ならなんて言っただろうね』)

これらの曲を聴いていると、「優しさ」とはなんと主観的なものだろうと、つくづく思う。
自分が誰かに対して「優しく」しようとして行った言動が、相手にとって「優しい」と感じるものかどうかは分からないし、自分が誰かの言動に対して「優しい」と感じたとしても、それが本当に「優しい」ものなのか、相手の「優しさ」によってなされたものなのかどうかは分からないからだ。それらは実に主観的なもので、真実や現実ではない。だから、 <昔褒められた「優しさ」は/つけこまれるだけの欠点にしかならん>(『鼻で笑うぜ』)と歌われているように、「優しい」と信じているものや「優しい」と感じているものは、次の瞬間にはひっくり返ってしまうものかもしれないし、利用されてしまうものなのかもしれない。

このアルバムの中で CRYMAYはそんな「優しさ」というものについて何曲にも渡って歌っているわけだが、それが主観に過ぎないということも、もちろん分かっているのではないかと思う。『ten』で <確証のない愛を/癖になって唱えていた> の直後に、<「stand by me」的さ/数年後に美化されてそうな> という、驚くほど客観的で俯瞰的な視線が捻じ込まれていることからもそれが伺える。今この瞬間の「優しさ」が正しいものでも絶対的なものでもないことを知っているのだろう。

また、主観の海を泳ぐことがどんなにしんどいことかも分かっている。主観の海を泳ぐということは、誰かの主観とぶつかることもあるし、人とは分かり合えないことを思い知るし、溺れたり傷だらけになったりすることだと知っている。それは、例えば『ディスタンス』の <あなたを思って 枯らす涙は/戻らないけど あなたも「戻らないから」ってさ> という一節における、絶望的なまでにすれ違う主観と主観の描写の鮮烈さにも表れている。そして、極限まで声を張り上げて訴えるように、苦しみの底の底から歌われるこのフレーズを聴いていると、「主観の海を泳ぐこと」のしんどさは「自分が自分として生きていくこと」のしんどさと同義でもあるのだと思わされる。

だが、CRYAMYはどんなに劣悪な環境にいようとも「自分が自分として生きていくこと」を絶対に諦めない。だから、複雑で厄介で、できれば逃げ出してしまいたい、人間の「心」なんていうものに、まともに向き合おうとする。

私たちがなぜこんなにもCRYAMYに夢中になってしまうのか、その理由のひとつがここにある。どんなに金がなくても、人と喧嘩しても、傷だらけになっても、自分が自分として生きていくことを諦めないその姿に、感心してしまうのだ。私たちはどこかで心が折れて、なんとなく妥協して、諦めて、本当の気持ちを置き去りにして、やがて自分の主観を失ってしまう。または、<選んだようで選ばされてたり>(『優しい君ならなんて言っただろうね』)というように、選ばされたものを自分で選んだものだと、自分の主観であると思い込んで進んだり、選ばされたことにすら気づかずに借り物を自分の主観にして進んでしまったりすることもある。
そんな中で、CRYAMYの、絶対に自分で選ぶんだ、絶対に主観を捨てないんだ、絶対に諦めないんだという姿を見せつけられると、さすがにハッとさせられるのだ。「心」の周りにこびりついていた泥がきれいに落とされて、人間の奥の方にあるそのまっさらな「心」の存在を初めてちゃんと見たかような感覚になる。本当は、最初は、自分の心も主観もちゃんとそこにあったのだということを、一見無茶苦茶にも見えるカワノの主観によって知らされるのだ。

そして、そんな泥の落ちたまっさらな心に、CRYAMYの熱を持った音は直接触れてくる。その直接の熱や速度に、これまで感じたことがないほどの衝撃を受けてしまう。そして気づいたときには、CRYAMYに完全に心を掴まれてしまっている。

そう、カワノの主観が据えられた歌を遠くまで飛ばし、私たちの心にすごい速さで着地させ、心を鷲掴みにしてくるのは、実はカワノ以外の3人の演奏なのだ。カワノが主観の海を泳いで溺れたり傷だらけになったりしながらたった一人でつくった歌は、弾き語りで聴くと「悲しみ」や「憂い」に焦点が当たったフォークミュージックのようにも聴こえる。だが、その歌は、3人のギターとベースとドラムによって、ロックの全能感を纏ったものや、思わず体が動いてしまうポップパンクに、みるみる化けていく。その様は、まさにバンドマジックだ。私が初めてCRYAMYの曲を聴いたのは、このアルバムの5曲目に収録されている『普通』という曲だったが、特にこの曲は今改めて聴いても、最初から最後までロックの全能感と無敵感に溢れている。3人がいかにカワノの視界を理解しているか、どんなアレンジと演奏がこの曲を最強にするかということを考え抜いているか、そして全員が主観をぶつけ合うことでどんどん無敵になっていく相性の良さ、それらが如実に感じられる一曲だ。

それ以外の曲でも、フジタレイ(Gt)のギターは、あらゆる悲しみややるせなさを焼き尽くし、塞がらない傷口を埋め尽くす。CRYAMYの歌詞には「朝日」や「朝焼け」という言葉がよく登場するが、彼のギターの音はカワノの歌う「朝日」や「朝焼け」そのもののように赤く、強い光で私たちを包みこむ。こんなギターを弾く人を私は他に知らない。
また、オオモリユウト(Dr)のドラムは、時に起爆剤のように、時に全員を連れ去るかのように、鋭い一発をぶち込んでくるのが最高だ。特に『戦争』では、彼のドラムが合図になって弾け飛ぶ瞬間がたまらない。ライブではさらにとんでもないことになるであろうことが予想できる。
それから、タカハシコウキ(Ba/cho)のベースには体温のような暖かさがあり、それが激しさや鋭さに満ちたCRYAMYの曲をギリギリのところでポップで聴きやすい音にしている気がする。極端に攻撃的になったり偏ってしまうのを食い止め引き戻すかのようなベースによって、CRYAMYの音楽はど真ん中を貫くことができているのだろう。

そして、そんな三者三様の熱を持った演奏によって、カワノの声に時折混じる冷たさが浮かび上がってくるところもまた、このバンド特有の魅力だ。元々はカワノの主観から始まったCRYAMYの曲で、一番冷んやりした感触や俯瞰的なものを感じさせられるのがカワノの声だというのは実に不思議なことではあるが、そこにまた私たちは強烈に惹きつけられてしまう。

また、3人の生み出す音がどんなに悲しみややるせなさや傷口を焼き尽くそうとも、それでもなお依然としてそこに残る人間の感情や心というものが炎の向こうに見えるとき、それがさらに私たちの心を激しく打つ。
これだけ「心」というものに向き合い、果敢にも「心」に肉薄していきながら、「わかりたい」と思っている他人の感情を完全には理解することはできないという人間のどうすることもできない悲しさが、激しい音の隙間からこぼれ落ちてくる。

その中でも印象的なのは、『完璧な国』の <顔の歪め方を忘れたあなたも無事に明日を迎えられますように> というフレーズだ。ここで、カワノは「あなた」の感情を特定していない。<顔の歪め方を忘れたあなた> というのは、「笑うことができない」のか、「泣くことができない」のか、あるいはもっと複雑な表情なのか、特定していない。それは、他者の感情を、その感情の微妙な動きを、完全には理解することができないと知っているが故の表現なのではないだろうか。

そして、その「わかりたいけど永遠にわからない」他者に対して、『鼻で笑うぜ』でカワノは <でもね君が生きていてよかったって思うよ> と歌う。そう、カワノは最後はやっぱり主観に戻るのだ。この曲の中で歌われている、なんとも言えない状態にある友達や先輩に対して何もできない彼は、自分の考える「優しさ」がエゴでしかあり得ないと知りながら <でもね君が生きていてよかったって思うよ> と歌う。「君が生きていてよかった」と思うなんて実に主観的で勝手だが、他者の感情を完全には理解することができないというどうしようもない悲しみの中で、それは私たちに唯一できる「思いやり」の形なのかもしれないとも思う。永遠に分かり合えない他者に対して、これだけはギリギリ歌えるという、カワノが辿り着いたひとつの境地が、このフレーズなのかもしれないと思う。

そうやって、CRYAMYは「心」というものに対しギリギリの攻防を繰り返し、このアルバムを完成させた。だからこそ、その曲たちはものすごい熱を持ったまま、私たちの「心」に直接触れてきたのだと思う。しかし、人の心に直接触れるというのは、諸刃の剣でもある。心に直接触れることで、救われたと感じる人もいれば、傷口を抉られたと感じる人もいるだろう。それはとても素敵なことであると同時に、とても危険なことでもあるのだ。

だが、それでも CRYAMYは、この「心」に踏み込む『CRYAMY -red album-』を世に放った。
危険も伴いながら、それでも「心」に手を伸ばすことを選んだ。

このアルバムの歌詞カードのちょうど真ん中のページは、syrup16g の『Free Throw』〈※1〉の歌詞カードをオマージュした写真のレイアウトになっている。また、『優しい君ならなんて言っただろうね』のイントロには『明日を落としても』〈※2〉の雰囲気を感じたし、<君は生きた方がいい>(『ギロチン』)というフレーズは <君は死んだ方がいい>(『デイパス』〈※3〉)を、<今日も切って貼っての繰り返し>(『雨』)というフレーズは <理想と幻想/切って貼ってな>(『パッチワーク』〈※4〉)を想起させる。

そう、syrup16g もまた、というか syrup16g こそ、「心」に直接触れることができる稀有なバンドだ。CRYAMYも、syrup16g に心をどうにかされた経験があるのだろうか。もしもそういうところから、CRYAMYの曲や覚悟が生まれているのだとしたら、こんなに素敵なことはないと思う。

そういうわけで、『CRYAMY -red album-』は、一言で言えば「心」のアルバムなのだと思う。CRYAMYとそれを聴いた私たちだけの、心と心のアルバムだ。だから、心なんてとっくに焼け落ちたと思っている人にこそ、このアルバムを聴いてほしい。このアルバムを聴いた暁には、黄色い線で描かれたあなただけの「心」の形が浮かび上がり、あなただけの熱が赤く灯るかもしれない。
この新たな世代のロックスターは、あなたの心を蘇らせる、そんな果てしないエネルギーを滾らせている。

〈※1〉は、syrup16g の 1st mini album。
〈※2〉〈※3〉〈※4〉は、全て syrup16g の楽曲。

※ この文章は 2021年6月29日に「音楽文」に掲載された文章を加筆・修正したものです。