二次元から三次元へ - 女王蜂『夜天』が呼び戻す身体性 -

アヴちゃんが発した <宿る> という三文字の肉声で、スイッチが切り替わった。

女王蜂が 2021年1月27日にリリースしたシングル『夜天』。
この曲の始まりは、二次元の世界を想像させる。
ゲーム音楽のような電子音に、エフェクトがかかったアヴちゃんのファルセット。
そこでは、キャラクターになった女王蜂のメンバーが、アニメやゲームの世界を歩き始めたような印象を受ける。<ひたむきな美しさは切なさや儚さを越えて/呆れるほどに高く深く さあ、どこへだってゆける> と、東西南北どの方向にでも歩いていける冒険の物語が、画面の向こうで始まる。

ところが、1番の最後の <胸に宿る> というフレーズの <宿る> で、アヴちゃんの声が突如地声に変わる。ファルセットから一転、絞り出されたその声を聴いたとき、叩き起こされたみたいにハッとさせられた。二次元のテレビやPCの画面を突き破って、キャラクターだと思っていた女王蜂のメンバーたちが肉体を持って三次元として眼前に現れたみたいだったからだ。

そして、この「三次元であること」、私たちは生身の存在であるということを、いま女王蜂が打ち出してきたことに、大きな意味を感じた。

そこには、二つの理由があった。

ひとつは、この一年、女王蜂が二次元での表現を追求し続けてきたからこその、そこからの反動が見えたからだ。
2020年は多くのバンドが配信ライブというものについて考え、手探りを続けた年だったわけだが、女王蜂が2020年に行った配信ライブも、映像としての可能性を徹底的に追求した、ひとつの究極形だった。現実離れした、架空の世界を創りあげた舞台セットや、カメラワークを駆使することで瞬時に変わったかのように見せるメンバーの衣装、そして、カメラに映り込むスタッフが全員バニーの衣装を着ていたこと。それは、オーディエンスと空間を共有できないことを逆手に取った、パーフェクトなストーリーと展開と美しさを見せつけた配信ライブだった。

最近では、女王蜂や他の多くのバンドのハイクオリティーな配信ライブを見てきたことで、見る側としても、配信ライブを一種の映像作品・映像コンテンツとして楽しむことに少し慣れてきてしまった自分がいることに、薄々気づいていた。そんなタイミングで『夜天』に出会ったため、眠っている身体を叩き起こされたように感じたのだと思う。いま、女王蜂が地声によって身体性を取り戻そうとしているのは、そんな配信ライブをやる側も見る側も少し慣れてきてしまった「二次元」という形態に対する揺さぶりなのだと思った。女王蜂はキャラクターではなく本当にここにいるんだよというメッセージ、あなたも画面の向こうに確かに存在しているよねという呼びかけ、そんな風にも聴こえた。

もうひとつの理由は、「傷」の向こう側が見えた、というところにある。
女王蜂は、これまでずっと「傷」について歌ってきたバンドだと思う。
特に、昨年リリースされたアルバム『BL』は、未だにその全てを正面から受け止めきることができないほどに、生々しい傷が表現されている作品だった。この世界を生きる悲しみや、不条理に負けていくことに対するやるせなさや、なんだかわからないせつなさ。世間からの風当たりの強さや、飲み込まざるを得なかった言葉や、それらによって抉られた傷。そういうものが、これまでの作品よりも濃く充満していた。

だが、『夜天』では、「傷」は依然としてそこにあるのだが、それよりも、傷つき痛みを感じるということは私たちが身体を持った生身の存在であることの証だ、ということの方が前面に浮かび上がってきているように感じられた。<繋いだ手を弾く 痛みが走ってゆく> <強く抱き合う程に砕けては光り> といったフレーズには、特にそれが表れているように思う。これまでは「傷」自体にスポットが当たっていたため、その向こうにある「身体」はぼんやりと見えていたのが、『夜天』では「身体」の方に焦点が合うようになっている。ずっと「傷」を見つめ、「傷」を歌ってきたアヴちゃんが、表現をする上での基礎として常に意識し大切にしてきた「自分が生身の存在である」ということが、『夜天』ではごく自然に、そして鮮明に表面に出てきているのを感じた。

さらに、『夜天』においては、生身の存在であることの辛さや悲しみだけでなく、その神秘性も表現されているような気がした。重厚だった『BL』の世界に対し、『夜天』はどこか吹っ切れたような印象を受ける軽快なサウンドになっているが、バックに流れる流星のようなシンセの音やアヴちゃんの慈しみに満ちた美しい歌声に、傷を内包しながら生身で表現していくことへの覚悟と、生身の存在であることやひいては命というものの神秘性に対する讃美が込めらている気がしたのだ。
そして、それを聴いていると、夜の暗い空だからこそ見えるようになる星のように、二次元に慣れた世界だからこそ、私たちは生身の体で生きていることの不思議さや神秘性に気づかされたのかもしれないと思った。アヴちゃんがずっと大切にしてきた「生身であること」、そして生身だからこそ傷つくということが、いま『夜天』によって改めて痛みと神秘を伴って伝わってきたのだ。その痛みと神秘の美しい重なりこそが、聴く者の心を捉えて離さないのだと思う。


ところで、生身の存在であることを意識するということは、肉体の終わりを意識することにつながると思うのだが、アヴちゃんは、「人生はいつか終わる」ということについて、これまでずっと独特な表現をしてきた。
例えば、『緊急事態』という曲では、

<ああ ただ増えてゆくようで減ってゆく日々を
使い果たさず出会えたこと自体 緊急事態>

と、「人生はいつか終わる」ということを「増えてゆくようで減ってゆく日々を使い果たす」と表現していた。ここには、アヴちゃんの「自分の命や身体や人生は、自分がどうやって使うか決めるものだ」という信念が表れているのだと思う。

その信念は『夜天』においても、<砂時計の残り一粒残らず好きに染めて使い切るだけ> とさらに強く表明されている。そこには、自らの命や身体や人生の主導権を己が握り、傷と共に生身の身体で表現に向き合い、自らの手で道を切り拓いてきた、女王蜂の歴史のすべてが詰め込まれているようにも感じられた。

そして、あの「宿る」という言葉を発した時の凄みは、そんな女王蜂だからこそ生み出せたものなのだろうと思った。画面を見つめて視力と聴力のみを使うことに慣れた生活の中で聴いた、あの「宿る」という言葉には、肉体を自分のものとして自分の元に引き寄せたい、それこそがあるべき姿であるという、女王蜂がずっと持ち続けてきた信念が宿っていたのだと思う。だからこそ、そのたった三文字の肉声は、二次元から三次元へとスイッチを切り替えさせ、私の元にも身体性を呼び戻したのだ。


『夜天』は、『BL』のモードや配信ライブを追求した2020年の女王蜂への、2021年の女王蜂からの回答であり、女王蜂から私たちに向けた「三次元」への回帰というメッセージでもあり、今後の女王蜂の進む道を示唆するものでもあると思う。

<あの頃には戻れないことを思い知るの
 それでも喜びはいつも見出すものと、忘れないでいたい>

いま身体性を取り戻した女王蜂は、もう <あの頃には戻れない> 新たな現実の中で、 <喜びはいつも見出すもの> と、さらに自らの道を切り拓いていこうとしている。
その道の先で女王蜂が表現するものは、きっとまた私たちに鮮烈な何かを「宿す」はずだと、期待せずにはいられない。

※ この文章は 2021年2月25日に「音楽文」に掲載された文章を加筆・修正したものです。


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