CRYAMYから受け取ったすべてのこと - 配信ライブ『CRYAMY presents 100分』と 2nd SINGLE『GUIDE』-

2020年6月13日に、CRYAMYによる無観客生配信ライブ『CRYAMY presents 100分』が行われた。

まず、少し長くなるが、この配信に至るまでの経緯、CRYAMYの歩みと自分の心の動きについて、記録しておこうと思う。

CRYAMYは2019年末に『#3』というEPをリリースし、2020年1月からそのリリースツアーである『月世界旅行記』を行ってきた。しかし、3月に行われるはずだった大阪・東京公演は、新型コロナウイルス感染拡大の影響により、延期されることになった。そのほか、CRYAMYが出演する予定だった対バンイベントやサーキットイベントも次々に延期が発表された。他のバンドのライブだってイベントだってみんな延期か中止になった。仕方のないことだったと思う。そんな中、カワノ(vo & g)はひどく落ち込んでいるようだった。大阪・東京公演の延期を自分の口から伝えたいというカワノ は配信で1時間あまり話して説明してくれたのだが、その声は強張っていて、少し震えていた。その頃、ライブが延期や中止になる代わりに無観客でライブを行い、それを配信するということをいくつかのバンドが始めていたが、カワノは「CRYAMYは配信ライブをやらない」と言った。「必ずあなたたちの目の前で演奏する」と言い、大阪・東京公演は6月に延期になること、東京公演は当初予定していた新代田FEVERの2倍のキャパである渋谷O-WESTで開催すること、急遽シングルを作成することにしたこと、などが告げられた。そこには、ツアー『月世界旅行記』を完遂させることができなかった悲しみや無念を、キャパも内容も凄みも2倍にして昇華してやろうという野望が見えた。

カワノは配信ライブをやらない理由を、配信でやってもCRYAMYは何も伝わらないだろうから、対面じゃないと嘘っぽくなってしまうから、というように説明していたが、私は当初その説明があまり腑に落ちなかった。配信でもライブを見ることができたら嬉しいし、元気になるファンもたくさんいるだろうになあ、と単純に思ったりもした。だが、以前行った彼らのライブを思い返してみれば、配信ライブをやらないという決断はもっともであるような気もしてきた。なぜかといえば、カワノはライブにおいて配信では伝わらないことを一番大事にしていたからだ。それは、客一人一人の目を見て話し歌うということだ。初めてCRYAMYのライブに行ったとき、一番驚いたのはダイブしまくることや暴れて派手なパフォーマンスをすることよりも、本当に一人一人の目を見ているということだった。どんな人かも知らない目の前の人の目を見て心を尽くして歌うこと、それがカワノにとっての「ライブをする」ということであり、そんなライブを積み重ねることが、カワノにとっての「生きる」ということだったのだと思う。そこには「こだわり」などという言葉では片付けることができないほどの濃度の思いがあり、そんなライブができなくなるということは生きる意味を失ってしまうくらいきついことなんだろうと思った。だからカワノにとってライブは代替不可能で、配信ライブをすることは彼にとってのライブの意味や価値を歪めてしまうことなのかもしれないと思うようになった。

こういう状況になって、私もまた「ライブとは何だったのか」ということを考える機会が増えた。どういう人かも全然知らない、話したら自分とは全然合わない奴かもしれない、たまたま隣に居合わせた人と同じステージを見て同じ音楽を目がけて体をぶつけ合って濃厚接触する。こうして文字にしてみると、なんだかいかがわしい異常空間にも思えてくる。だが、そんないかがわしい異常空間でしか起こらない心の震えやストレスの消化や傷の癒しや細胞の生まれ変わりや何らかの爆発があり、それによって何かが破壊され何かが生まれてくる瞬間が確かにあったんだよなあとも思う。それは確かにある種の人間にとっては特別なものだったのだ。

その後、CRYAMYは6月に延期されたライブとシングル発売を目指して動いていたようだが、5月末に緊急事態宣言は解除されたもののライブハウスへの休業要請が緩和されるのはロードマップのSTEP3、最後の段階であり、また、休業要請が緩和されたところで、以前のようなライブがすぐにできないことは誰の目にも明らかであり、いつになったらどのような形ならライブができるのかということについては、見通しがつかなかった。そして、6月に延期になったライブも再延期されることになった。

そんななか、CRYAMYは配信ライブを行うことを発表する。あんなにやらないと言っていた配信ライブをやるというのだ。

私は上記で書いたようなことをグダグダと思い返したり考えたりもしたが、それでもなお、画面越しであってもライブを見ることができるというのは、やはり嬉しかった。だが、バンドの側はどうなんだろう。バンドが持ち続けてきた信念や積み上げてきた意味や価値を歪めることになってしまわないだろうか。また、客がいない中で演奏するというのはモチベーションを保つのが難しいかもしれないし、感情の持っていき方も難しいかもしれない。果たしてどんなライブになるのだろうか。

かくして、6月13日20時、ZAIKOにて生配信ライブ『CRYAMY presents 100分』が始まった。カワノはやはり未だに配信ライブに対して複雑な思いを抱えているようで、冒頭でそのようなことを話していた。そして1曲目『テリトリアル』がスタート。ところが『テリトリアル』を演奏し終えたところで配信がストップしてしまった。ZAIKOのサイトで接続障害が発生してしまったのだ。急遽、有料だったライブ配信は、ライブハウス新代田FEVERのYouTubeアカウントでの無料配信に切り替えて行われることになった。

YouTubeの画面を開いて待っていると、床にしゃがんで左手でエフェクターを押し、右手でギターを掻き鳴らすカワノが映った。立ち上がってマイクを掴み、「どいつもこいつも水差しやがって」「くそ」と悪態をつき、「よし、やりましょう」と言ったかと思うと、『sonic pop』でライブを再開させる。早速、フジタレイのギターが炸裂し、続く『crybaby』ではカワノが何かを叩きつけるかのように、怒鳴るように歌う。ああ、CRYAMYだ、と思った。

その後カワノが長いこと話し、『ディスタンス』が演奏された。シンバルが静かに鳴り、サビがゆっくりと歌われ、曲が始まる。叫ぶカワノの高い声に、動きまくるベースと暴れまくる高いギターリフの音を絡んで、もうこうなると誰も手がつけられない。これがCRYAMYだ。きっとみんな、こんなバンドがやりたかった。続く『ビネガー』では、カワノが前髪の隙間からこちらを見ているのが分かった。なるべく目の前でライブをしているように振る舞ってくれているのだろう。

名曲『普通』では、あの闇を切り裂くようなギターに全てを持っていかれた。「たかしこ、よろしくお願いします」と言って始まった『easily』では、タカハシの柔らかく暖かみのあるベースが鳴り、その上に乗るカワノの声は艶やかに伸びていく。続く『twisted』のタカハシのコーラスも最高だ。

それから、友人のことを歌った曲である『ディレイ』『物臭』が演奏され、中盤の『雨』に入ったとき、バンドが覚醒していくのが分かった。4人の音が溶けてひとつになっていく感覚、全ての焦点が合い音の中に溶けていくような感覚。ロックバンドのライブを生で見たことがある人は経験したことがあるだろう。最初はメンバーの演奏が堅かったり、自分もどこかステージを「眺めている」状態だったりするのが、ライブの中盤で急に何かのギアが入ったかのようにグルーヴが生まれ、自分もその音の渦の中に溶けていくような、あの感覚。それが、『雨』で急に来たのだった。そして、完全にグルーヴが出来上がった状態で演奏された『正常位』では繊細な世界を霧のように立ち上げてみせ、『pink』に雪崩れ込んだ時には私はもう完全に興奮していた。ライブだ。ロックバンドのライブだ。私は今、ライブを見ている。フジタレイが金髪を振り乱してギターを弾いていた。

その次に披露されたのは、まだ音源にはなっていない新曲『鼻で笑うぜ』だった。カワノがネットに上げていた弾き語りのデモでこの曲を聴いていた時とは、ガラリと印象が違う曲になっていて驚く。友人や先輩や自分の何とも言い難い状況が歌われている、何とも言えないが優しい弾き語りの歌が、バンドのアレンジになったら、楽しそうなイントロで始まる実にポップで軽快な曲になっていたので、思わず笑ってしまった。でも、それがめちゃくちゃ良いアレンジで、最高な曲になっていた。このバンドすごいな、と思っていたら、カワノ以外の3人が話し始めた。普段のライブではあまり話すことのない3人の緩いやりとりが、なんだかすごくよかった。

そして、再び、カワノが長い話を始めた。
カワノの話は時々支離滅裂で、論理が破綻していて、何を言っているのか分からないことも多いし、どうしてそこからそこへ行くんだよと思うこともある。でも、というか、だからこそ、こちらは彼の言いたいことの中心を探して手を伸ばそうとする。なんとか解釈して理解して受け止めようとする。暗号を見せられたら、つい解きたくなってしまうみたいに。この日、2回にわたってカワノが話したことも、私にはよく理解できないところもあったが、覚えていることをとにかく記しておこうと思う。

まず、配信ライブをやることにした理由については、「これまでCRYAMYを聴いてくれていたお客さんでツアーに来る予定だった人の中には、ライブが延期になってしまうと就職とか学校とか病気とかの理由でもうライブに来れなくなってしまう人もいるかもしれない。そういう今までCRYAMYを支えてくれた人たちに今何ができるか考えて、散々配信ライブはやりたくないと言ってきたけどやらせていただくことにした」と言っていた。だが、そう言ったかと思えば、「僕は配信なんかやりたくないとか言ってましたけど、やっぱりどうしても曲を聞いてほしいというなんかすっごいいやらしい欲望には勝てなかった。だから卑怯なんだけど、みんながCRYAMYの配信ライブを見たいと言ってくれているということを理由にしてやってる」などと言い出したり、「一番は我々4人がやりたかったからやっている。勝手にやっているだけだから、皆さんも勝手にしてください」と急に突き放したことを言う。

それから、「ライブが何年先にできるという保証もない、ライブに一生行けないかもしれない、そういう不安の渦中にいる人に、希望を捨てないでほしいと言いたい。」と言ったかと思えば、「希望を持ってくださいという言葉を重荷には取ってほしくないから、みなさんもどうか好きにしてください。無理に待つ必要はなくて、離れていってしまうのであれば離れていってしまえばいい。」とまたしても突き放し、そうかと思えば、「去るも自由だし待つも自由だと思う。だから待ってくれている人がもしもいたら、僕らもずっと待ってますので。ずっと待ってます。帰るべき場所はあなたの目の前でありますように。」と言う。

実際はこの10倍くらいの長さがあるその話を聞いていると、頭が混乱してよく分からなくなってくるし、矛盾していて滅茶苦茶なことを言っているようにも思える。だけど、たぶんカワノにとっては全部本当の気持ちで、その思考が行き来する様も全部伝えたくて、こんなことになっているんだと思う。こちらは、その揺れている思考を混乱しながらもとりあえず全部受け止めようとしてみる。そうすることで、今まさにひとりの人間が命を燃やして生きて何かを伝えようとしているんだということだけは胸に刻まれる。

そんなカワノの話が終わった後、演奏されたのは新しいシングル『GUIDE』に収録される『誰そ彼』だった。何を歌っているのか分からなくなるほど埋め尽くしてくるギターリフが全てを赤く染める夕焼けのようで、胸がいっぱいになる。そして、夕陽が沈んで『月面旅行』が始まる。『月面旅行』は、ツアー『月世界旅行記』においても重要な曲だったのではないかと思う。ツアーでカワノが「地球は月と違って重力もあるし人も物も溢れているけど、それでも寂しいと思ってしまう」と言っていたが、その「寂しさ」というものにとことん向き合ったようなこの曲に、今回の事態で生じた悲しさや無念も全部乗せて発射されたような、色んな思いを乗せた美しさがあった。それから、『#3』のラストに収録されているシンプルで力強い祈りの歌『プラネタリウム』が奏でられ、「確証はないけどまた会いましょう」とカワノが叫んで『ten』。カワノが狂ったような目で歌う <そんなんでもいいでしょう/人間なんだよ> というフレーズが画面を飛び越えて心に入ってくるみたいに感じられた。

ノイズの中でカワノが言う。
「最近思うんですけど、綺麗事の何がいかんのかって。最後の1曲に全部込めます。あの、最後に一言だけ言わせてください。これは、みなさんの希望の歌だと思ってやらせてください。また会いましょう。ありがとうございました。」

そうして始まったのは『世界』だった。歪んだギターが鳴り響き、夜が明けていく。笑いながら最高のギターリフを弾くフジタレイ。床に膝をつき、ギターを掻きむしるカワノ。最後の「あなたが」というフレーズを歌いきった後、カワノが「ちょっと待って」と叫んだ。そして前髪を掻き上げて目を見開き、「ど頭が切れたからもう1回やろう、もう1回やりましょう、ありがとうございました。」と言って、ダブルピースをして、メンバーに合図を出した次の瞬間、今日の幻の1曲目『テリトリアル』が始まった。粋なことしやがって。めちゃくちゃかっこいいじゃないか。最後、もう一度カワノはダブルピースをして「ありがとうございました」と言って、ギターを片手に座り込んで、画面がぼやけていって配信は終わった。

今のCRYAMYの持っているもの全て、カワノの逡巡する思考の全てを見せつけたかのような100分だった。もちろん生のライブと同じというわけではないし、バンド側がどういう風に思ったのか、信念や価値を歪めることにならなかったか、その辺りのことは分からない。でも、私にとっては、想像していた以上に大きなものを受け取った100分だった。なかでも、『雨』~『pink』にかけての、生でライブを見ていた時のあの感覚を味わえたことは、すごいことなんじゃないかと思う。そのほかの場面でも、何度も心が動き、酔いしれたり興奮したり笑ったりしたし、見終わった後には少し元気になった気がした。そして私は前よりももっとCRYAMYを好きになっていた。ドラムのオオモリは、メンバーをよく見ながらドラムを叩いていることが分かり、このバンドの統率をとっているのはドラムなのかもしれないと思ったりした。やっぱりとにかく全曲フジタレイのギターは素晴らしいし、その尖りまくったギターを受け止めるかのようにタカハシのベースの音には暖かさと優しさがあると思った。自分たちで少しずつ自分たちだけの音を作っていっている、ほんとにいいバンドなんだなあと思ったりした。

配信ライブが終わってから少し経ったある日、ニューシングル『GUIDE』が届いた。
最近ではCDを買う機会も減っていたので忘れかけていたが、CDをPCに取り込むと曲名の他にジャンルとリリース年が表示される。『GUIDE』をPCに取り込んでみると、「ALTERNATIVE 2020」と表示された。収録された4曲を聴いてみると、そうだな、確かにこれは2020年のオルタナだな、と思った。
まず、ギターの音に、90年代のアメリカと今の日本をつなぐ力があった。その荒い歪みや潰れた音は、「あの頃のオルタナ」に焦がれた気持ちを思い出させるのと同時に、オルタナが今も人の不安や行き場のない思いに対して機能するんだということを強く実感させてくれた。シングルの1~3曲目『ディスタンス』『誰そ彼』『ディレイ』はどれもシンプルなコード進行だが、その上で、よくこんなの思いつくなあと思うほど心を掴んでくるバリエーション豊かなギターフレーズが暴れることで、それぞれの曲に強烈な個性が生まれている。それに、この3曲はどれも「過去」について歌われていると思うのだが、その過去の傷や後悔や行き場を失った思いなどが、ギターの音によって、まるで今もそのままそこにあるかのように、それぞれの明確な形が与えられたかのように感じられた。荒く歪んだギターや叫ぶカワノの声によって、過去を美化することなく、しかし確固たる特別な時間や存在として、作品に閉じ込めることに成功していた。
それから、ラスト4曲目の『戦争』の歌詞に登場する「拒絶」の精神が節々に感じられたことも大きい。NIRVANAが『Smells Like Teen Spirit』で「A denial」と叫んでいたように、オルタナとは私にとって「何かを拒絶すること」だったからだ。数や周りに流されず何かを拒絶するというのはものすごくエネルギーがいることだが、CRYAMYは独自の音楽や世界を構築するために、自らの信念に反することや嫌なことには、どんなに大変なことになろうとも、誰かに否定されたり嫌な顔をされようとも、きっちり拒絶してきたんだろうなと思う。シングルの3曲目までで「過去」に形を与えることができたCRYAMYは、ラストの『戦争』という短い曲で、これからも拒絶の精神でこのバンドで戦っていくんだという宣戦布告をしているように聴こえた。

大変なことになってしまった世の中で、目まぐるしく変わる情勢の中で、バンドやアーティスト側もリスナー側も手探り状態の日々だ。何を選択すればいいか分からなくなることも増えていくだろうし、ライブに行くことができる人とできない人が発生してしまうなど音楽を享受する上での格差も生まれていってしまうかもしれない。そもそも経済的な問題などで音楽を続けることができなくなってしまう人もいるだろうし、配信ライブのチケットを買うことも厳しい状況に追い込まれる人も出てくるかもしれない。そういうことを考え出すと、なんともやりきれない気持ちになってくる。でも、CRYAMYの『100分』を思い出したり、『GUIDE』を聴いたりしていると、CRYAMYが前に進もうとして鳴らす音が、カワノが何かを拒絶しようとして絞り出す声が、新しい道標をつくっていくかもしれないと、少しだけ明るいことを考えてみたりもする。

『戦争』で、カワノが歌っている。

<最後は見つめ合ってるだけ/最後は見つめ合って多分それが答え>

ライブに行けたら、互いの目が見えるところまで行けたら、どんなにいいだろう。でも、そんなに簡単に希望なんて持てないし、「いつか必ずライブに行く」などと確証のないことも言えない。だけど、これからCRYAMYが何を拒絶して、何を選択して、どんな音を鳴らし、どんな世界をつくっていくのかは、できる限り見ていたいと、切実に思う。見つめ合うことができないのなら、せめて見ていたいと思う。それから、その過程で揺れまくって逡巡するカワノの思考の全ても、できる限り、目に焼きつけていたいのだ。

※ この文章は 2020年7月15日に「音楽文」に掲載された文章を加筆・修正したものです。