薄氷の上の令和に響く、新しい音楽。 - Tempalay『大東京万博』-

Tempalay の『大東京万博』を聴いていると、まるでここ数ヶ月の東京や日本のことが歌われているみたいで、ぞっとする。『大東京万博』がリリースされたのは今年の2月26日なので、制作していた頃にはまだ現在のような新型コロナウイルス感染症の拡大に伴う状況というのは予想していなかったと思うのだが、不思議なことにこの曲はパズルのピースのように今の状況にぴたりと当てはまっている。

<雪どけこと知らず恋しくて
 薄氷ほどもろく儚くて
 逃れ逃れどこへ 死なないで生きていてね> (『大東京万博』)

<雪どけこと知らず恋しくて> というフレーズからは、現状の解決策や出口の見えなさを、<薄氷ほどもろく儚くて> というフレーズからは、この社会がこれまでスルーしてきた問題が一気に表面化し崩壊していく様子を、思い浮かべてしまった。<逃れ逃れどこへ 死なないで生きていてね> という部分については、もはや説明するまでもないだろう。たくさんの人がそれを一番に願っている。

また、この曲の冒頭には <醒めない酔い/まほろばいとをかし/嬉しからまし> という歌詞がある。「まほろば」というのは「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の古語で、古事記では倭健命の歌の中で「まほろば」という言葉が使われている。「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し 美し」というこの歌は、帰れないふるさとへの思いをこめた望郷歌であるとされている。(※1)

今、故郷に帰ることができなくなってしまった人が日本中、世界中にたくさんいる。時間とお金さえあれば飛行機や新幹線に乗れば帰ることができた以前とは違い、多くの人にとって「故郷」は次にいつ訪れることができるかも分からない、簡単には手の届かない遠い場所になってしまった。この曲で歌われている東京は地方出身者の多い街だから、特にそういう人が多いだろう。「まほろば」(故郷)に「いとをかし」、心を惹かれている人がたくさんいるだろう。『大東京万博』は冒頭からそんなことを歌っているように聴こえてしまった。

ところで、『大東京万博』とは一体何なのだろう。

この字面を見て多くの人がまず思い浮かべるのは、漫画『AKIRA』(※2) だと思う。実際、メンバーもこの曲は『AKIRA』から影響を受けていると公言している。よって、タイトルや歌詞に登場する「大東京」というのは、『AKIRA』で描かれている「大東京帝国」のイメージなのだろう。
だが、私は「大東京」という言葉からもうひとつ思い浮かべたものがあった。それは「大東京市」だ。「大東京市」というのは大正時代から昭和初期にかけて存在した東京の地域の名称だ。それまでにあった東京市に周辺の郡や町村を編入させて出来た地域を「大東京市」と呼んでいたらしい。
この「大東京市」のことを考えてみると、東京のもうひとつの側面が浮かび上がってくる。それは、東京が故郷である人たちにとっての「東京」だ。東京には地方に故郷がある人がたくさん住んでいるのと同時に、「大東京市」の頃から東京に住んでいる、東京が故郷だという人もいるのだ。地方と対比される東京もあれば、土着としての東京もある。私は東京に住んでいた頃、古くからある家屋や畑を見かけたときに、そんな当たり前のことに気づいてハッとしたことがあった。土着としての東京で生活してきた人たち、東京こそが「まほろば 」である人たちは、今の密集した東京をどう思っているのだろうか。そんなことを考えた。

また、この曲は、二胡の音や古語の響き、曲全体のオリエンタルな雰囲気から、古代の日本の祭りや雨乞いのような儀式で奏でられている音楽のようにも感じられる。つまり、『大東京万博』は、地方と対比される東京や土着としての東京といった異なる場所から見た様々な東京も描いているし、古代の東京・大正〜昭和時代の東京・現代の東京・未来のネオ東京といった様々な時代における東京も描いているのではないだろうか。だから、この曲を聴いていると、「上京」や「大都会」といったひとつのイメージに集約されない、いろいろな「東京」を「万博」のように見ることができるのだ。

この「ひとつのイメージに集約されない」というのは『大東京万博』に限ったことではなく、これまでの Tempalay の曲もそうだった。Tempalay のメロディーやサウンドは、ひとつの居心地が良い場所や時間にとどまることがない。そしてそれを聴くと、今まで音楽を聴いてこんな心の状態にはなったことがない、という初めての体験をすることになる。喜怒哀楽のどれにも回収されないし、安心でもカタルシスでもない、四季のように移ろう、まだ感情にもなっていないような何かを自覚する。特定の固まったものになる以前の、混沌とした、名前をつけることも定義することもできない、グラデーションで流動的な何かを知ることになる。

そんな Tempalay の音楽を、これまではなんとなく、ゆらゆらした曖昧でよくわからない魅力に惹かれて聴いてきた。だが、今のこの状況の中で聴いているうちに、どこにも着地しないで漂うこの音楽は、この世界そのものなのかもしれないと思うようになった。自分が納得もできないし了承もしていない、曖昧でいい加減で不具合だらけのシステムの上にグラグラしながら立って生きているという感覚。『大東京万博』の中に出てくる「薄氷」の上にいるような感覚。この数ヶ月、どんどん浮き彫りになるシステムの脆弱さを目にするたびに強くなっていくこの感覚が、Tempalay の鳴らす音と共鳴しているみたいに感じられた。

2019年にリリースされた前作の『21世紀より愛をこめて』というアルバムは、「平成」を真空パックしてタイムカプセルに入れたかのような作品だった。アルバムのラストの『おつかれ、平成』という曲では、<見ての通りまだ精一杯/生きるのにただ精一杯/唸るようにゆれた地面は/同じようにうねる津波が覆う> と、東日本大震災を想起させることが歌われ、<寝ても覚めてもあの時のまま/行き場の無い悲しみ 怒りが覆う> と、平成が終わるのに全く解決していない多くの問題に目を向けさせて終わっていた。

対して『大東京万博』は、そんな『21世紀より愛をこめて』に呼応するかのように、「令和」に足を踏み入れようとしている作品なのだと思う。
歌詞に散りばめられている古語は、「令和」という元号が初めて漢文からではなく日本の古典『万葉集』から引用されたこととリンクしている気がするし、より妖しくどこにも着地することなく漂う音は、平成の間に解決されずに残された問題の瓦礫の上に立たざるを得ない、「令和」に生きる私たちを表している気がする。

『大東京万博』を今年の2月に初めて聴いたとき、こういう曲がこれからの日本の音楽のスタンダードになっていくのかもしれないと、ふと思った。そして、それから数ヶ月が経った今、その予感はますます強くなっている。まだ誰も知らない景色まで人を運ぶのは、最初はどこに着地するかも分からない、違和感だらけの音なのではないだろうか。今までのどの音楽とも違う音楽だけが、手探りの未来への道標になる気がしている。

『大東京万博』は、最後に、<あなたはやさしさに泣く/子供みたいにひどく泣く> という、現在考え得る限り最も美しい光景を描いて終わる。私は今日も Tempalay を聴いて、薄氷の上で、やさしさと美しさを夢見て眠る。

(※1)参考文献 『古事記』(編者)角川書店(2002)P187〜P189
(※2)大友克洋(著)『AKIRA』第1巻〜第6巻 講談社1984〜1993)

※ この文章は 2020年5月28日に「音楽文」に掲載された文章を加筆・修正したものです。


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