People In The Box 『Tabula Rasa』

2019年9月、People In The Box(以下「ピープル」)が 7枚目となるアルバム『Tabula Rasa』をリリースした。

1曲目の『装置』を再生し、ピアノの音が流れると、どこか懐かしい感じがした。しばらくして、この感触は『ヨーロッパ』だ、と思った。『ヨーロッパ』というのは、ピープルが2008年にリリースしたアルバム『Bird Hotel』のラストに収録されている曲である。その『ヨーロッパ』の最後の方、ポエトリーディングの後ろで鳴っているギターの音に、『装置』のピアノの音はなんとなく似ている気がした。
また、『ヨーロッパ』に登場する <革命に揺れるシチューの鍋> というフレーズと、今作の7曲目『懐胎した犬のブルース』の <冷めきって 固まったシチューのポット>というフレーズは、「シチュー」という単語を介して繋がっているように思えた。
『Tabula Rasa』と『Bird Hotel』は、呼応している。そう直感した。

では、2008年に狂ったように聴いていた『Bird Hotel』とは一体何だったのか。
今振り返ってみると、このアルバムを一言で言うなら「無敵」だったのではないか、と思う。暴力と技術とセンスで、聴く者を即座に快楽へと導き、世界をひっくり返してしまうような、そういう音楽だった。青が印象的な美しいアルバムのジャケットには、気性の荒い品種として有名な闘魚が映っていた。
特に『ヨーロッパ』の最後で <君の胸騒ぎが本当になるといいな>と連呼する箇所は、無敵そのものだった。きっとピープルは、胸騒ぎを本当にしてしまうだろう。そう思わせる強引さや、ある種の暴力性があり、それにひどく興奮させられた。この曲を聴いているだけで、覚醒や全能感を得ることができた。

だが、<革命に揺れるシチューの鍋> は、今や <冷めきって 固まったシチューのポット> になってしまったし、<今では人がまるで噴水のように溢れ出している/やあ、みんなどこから来たんだ>(『ヨーロッパ』)と歌っていたのが、今では <忘れてしまうだろうね/催涙スプレーの昼も/ヒトビトがどんな遠くからやって来たかも>(『懐胎した犬のブルース』)と歌っているように、11年前の狂騒や胸騒ぎは終焉を迎え、記憶から消えようとしていることが伺える。

そのせいもあってか、『懐胎した犬のブルース』は少し悲しげに聴こえる。
しかし、この曲は悲しいだけの曲ではないし、過去を懐かしんでいるというわけでもない。むしろ、アウトロの木琴のような電子音は、実に楽しそうに軽やかに鳴っているし、未来を見つめているような感じがする。
それから、4曲目『忘れる音楽』の <街よ、ぼくはきみをみすてるだろう/明日がくれば> というフレーズの後のピアノの音も、それと似たような印象を受ける。まるで洗いたての白いTシャツみたいに清々しいのだ。

そう、このアルバムでは悲しさや物騒な気配がずっと流れているにもかかわらず、ピープルはどこか楽しそうでもあり、吹っ切れていて爽やかな印象さえ受ける。それはなぜなのだろうか。

まず、このアルバムに流れる物騒な気配について考えてみる。例えば、以下のようなフレーズがある。

<これがぼくの生きた資本主義>
<神に仕える派遣社員たち/彼らのことを知るべき>
<寒空ならぶクジ売り場/貧しいものへ 見ざる言わざる人は着飾る>(『まなざし』)
 
回転ドア高速回転中/100回転、1000回転>(『風景を一瞬で変える方法』)

これらを聴いていると、資本主義により生じた格差社会の有様や、システムを人間が制御できなくなることの恐ろしさが眼前に映し出され、システムや企業といった巨大な何かに踏みにじられていくような感覚がじわじわと忍び寄ってくる。この資本主義によって生み出されたシステムに対する恐怖感こそが、物騒な気配の正体なのではないだろうか。

特に今年は、会社・組織でのパワハラや、学校でのいじめにより、命を絶ってしまうという辛すぎるニュースを連日目にした。会社や学校を辞めるという選択をすることなく死を選んでしまう、それは既存のシステムの外に出ていったら生きていけないのではないかという不安が襲ってくるからだろう。そのような不安に苛まれると、人は正常な判断ができなくなり、異常な環境にそのまま身を置いてしまう。それはまさに人間がシステムに支配され、システムのために生きているというような狂った状況だ。『Tabula Rasa』には、そのような狂った状況、気持ちが塞ぎ込んでいってしまうような現実が反映されていた。

では、それなのに、ピープルがどこか楽しそうなのはなぜだろう。

それは、ピープルが既に資本主義に背を向けているからではないかと推測する。
<これがぼくの生きた資本主義> と過去形で歌っているピープルは、もう資本主義と今までの自分に別れを告げ、生まれ変わろうとしているのではないだろうか。

このように推測したのには、他にも理由がある。それは、アルバムタイトルの『Tabula Rasa』というワードだ。「Tabula Rasa」とは、ラテン語で「白紙状態」という意味で、人は生まれたときには何も書いていない板のように何も知らず、後の経験によって知識を得ていくという経験主義の考え方なのだそうだ。つまり、資本主義に背を向けたピープルは、「Tabula Rasa」=白紙状態に戻り、ここからは経験によって世界をつくろうとしているのだ。『懐胎した犬のブルース』で、生と死とその循環について歌い、「明日生まれ変わるから 記憶はいらない」と言っていることも、まさに白紙状態に戻ることを表していると思う。

ピープルは、きっと、今までの世界や自分と別れることに悲しさや寂しさも感じているけれど、生まれ変わることや新しい世界をつくっていくことに楽しさを見出しているのだと思う。だから『懐胎した犬のブルース』の電子音や『忘れる音楽』のピアノの音には、今までのピープルの曲ではあまり聴いたことのない、穏やかな清々しさや、落ち着きのある楽しさが溢れているのだろう。

そんな風に『Tabula Rasa』という作品の中で生まれ変わり、システムの外に出たピープルは、いまだシステムの中にいる私たちにこう問う。

<かけがえのあるたったひとつに/なりたい?/かけがえのあるおおきなひとつに/なりたい?>(『ミネルヴァ』)

この『ミネルヴァ』という曲は、2019年に聴いた曲の中で一番ポップなのではないかと思うような曲で、最近のピープルにはあまり見られなかった疾走感も感じる曲だ。また、アートとしての美しさも兼ね備えている曲で、「remember」と「Minerva」で韻を踏む箇所など、ため息が出てしまうくらい美しい。そんなピープルとしてのポップミュージックとアートのバランスを究めたこの曲で、上記のような問いを不意に投げかけられたので、ドキリとしてしまった。あなたたちは、巨大なシステムに呑み込まれて、いくらでも代わりがきく、「かけがえのない」存在ではなく「かけがえのある」存在になりたいのか、と、核心を突かれてしまった気がしたのだ。

また、アルバムの最後の曲『まなざし』ではこんな風に歌う。

<いつかきみは人間になって目論むのさ/嘘を嘘で迎撃し、ひっくり返すことを/それはまだ先の話 とりあえずは/とっておきを台なしにした世界を/きみが耐えられますように/耐えられますように>(『まなざし』)

『Bird Hotel』の最後で <君の胸騒ぎが本当になるといいな> と世界をひっくり返さんばかりの勢いで歌っていたのと比較すれば、<とりあえずは/とっておきを台なしにした世界を/きみが耐えられますように> というフレーズは、控えめで開放感に欠けるかもしれない。
しかし、これは、システムに別れを告げたピープルが、いまだシステムの中にいる私たちに向けて歌うことのできる、ギリギリの祈りなのだろうと思った。ピープルは、誰もが簡単に今すぐシステムの外に出ていくことができるわけではないことを知っているのだ。だから、そのなかで耐えている人の心を少しでも柔らげようと、「とりあえず」の緊急措置でしかないということも知りながら、美しい音を祈りとともに鳴らしている。

『まなざし』のラストは <これがぼくの生きた資本主義/ずっとみているよ> というフレーズで終わる。この「ずっとみているよ」には、いまだシステムの中にいる私たちを見守るという意味もあるだろうし、システムを監視するという意味もあるのだろう。

そして、この「みる」ということに関しては、1曲目の『装置』の「凝視めるサイクロプス」というフレーズとも呼応している。「サイクロプス」というのはギリシャ神話に出てくる一ツ目の巨人のことだ。つまり、このアルバムの最初では巨大で不気味なものに「みられていた」自分が、アルバムの最後には自分が巨大なものを「みる」側へと転換しているのだ。

これはもしかしたら、ピープルが私たちに送っているヒントなのかもしれない。このシステムから抜け出し、白紙状態に戻るためのヒント、それは、自分が「みられる」側にいるのでなく、「みる」側に回ればいい、ということではないだろうか。

そう、『Tabula Rasa』で、ピープルは、世界をひっくり返す代わりに、視点を逆転させ、主体と客体を逆転させたのだ。
これは無敵だ、と思った。「みる」側になれば、何も怖れることはないからだ。

そういうわけで、2019年の最新作でも、People In The Box はやっぱり無敵だった。

※ この文章は 2019年12月23日に「音楽文」に掲載された文章を加筆・修正したものです。


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