土井玄臣『The Illuminated Nightingale』感想

The Illuminated Nightingale

The Illuminated Nightingale

 時間軸に音の粒が配置されている。あらゆる曲がそうであるのに、このアルバムを聴いているとそのことが聖なる行為に見えてくる。

 このアルバムは夜の始まりから始まり、夜明け前で終わる。と言われたら思い浮かべるのはどうしたってスピッツの『三日月ロック』だろう。『三日月ロック』との共通点は、妄想と現実の境界線が曖昧なところだと思う。夜の自由さ、夜の無敵さ、夜のボーダーレス。白日に晒される前に、誰にも気づかれないうちに、計画を遂行するときの、あのとんでもない楽しさ。

 小さい頃にNHKの教育番組で見たような、夜の遊園地で動物達の像が動き出して遊び回ったり冒険したりするような、そんな場面が頭に浮かんでくる。やわらかく光を放つ電子音は、闇の中を跳ねるスーパーボールみたいだ。

 なかでも一番好きなのは5曲目「サリー」。ドラムの音が大きくなる「不安なサリー」のところで、全部救われる。本当に、ふっと、なにもかもが軽くなる。あの瞬間はちょっとなにものにも代え難い。

 6曲目のAuf Wiedersehenは真夜中ここに極まれりというという感じ。午前1時。8曲目の「涯てな」は午前3時。この曲はちょっと綺麗すぎて怖い。夜にはもちろん怖さもある。

 土井さんのつくる曲に出てくる人たちはみんな何もかもから見捨てられていて、それは人間からだけじゃなくて、太陽とか電車とかその他いろいろなものからも見捨てられていて、そういう人たちが夜に落ちていきながら少しずつ輝いていって、そういう物語を見ているとものすごくせつないけれどその輝きに足元を照らされる。

 最後になにかうまいことを言ってまとめたいんだけど、このアルバムを聴いているとなんだかふわふわしてしまって、あとちょっと骨抜きみたいな感じになって、適当な言葉も見つからない。夜に無駄に起きているのが好きな人は聴いてみてください。