一人で始める、一人から始まる。- the chef cooks me『Feeling』-

the chef cooks me(以下「シェフ」)のニューアルバム『Feeling』は、0秒目から歌で始まる。1曲目『Now’s the time』にイントロはなく、下村亮介のつぶやきのような独白のような歌で厳かに幕を開ける。

アルバムがいきなり歌から始まること自体は、シェフにおいては珍しいことではない。前作『回転体』の1曲目『流転する世界』も歌から始まっていた。だが、前作は朗々とした歌で高らかに始まりを告げていたのに対し、今作の始まりはそれとは明らかに異なるテンションと空気感だ。

そのせいもあるのだろうか、歌の言葉の持つ質量が、これまでのシェフの作品とは違うように聴こえた。その言葉たちは、まるで小石のように私の中に何気なく投げ込まれ、着地し、いつまでもそこに居た。

例えば、以下のような歌詞がある。

<数字になって名前すら失いそうな世界にゃ用事はない>(『Now’s the time』)

<世界は共感に酔ってばらばらさ>
<顔のない『みんな思ってる』は/耳鳴りみたいに音になりもしない>(『最新世界心心相印』)

<凡庸なスマートフォンに/押し込まれたパーソナリティ>(『Evening』)

<まるで噛み合わぬ顔のない会話>(『AMBIVALENT』)

<思想や居場所を囲って/共感したり レースしたりして>
<ヒステリックな普通がのさばる>(『浮世』)

これらは、SNSSNSによって生じた状況に対する違和感を歌っているように聴こえた。
その中でも特に気になったのが、「共感」という単語が2回登場することだ。

なぜそこが気になったのかと言えば、この数年間、共感が蔓延する社会になんとなく居心地の悪さを感じたり、もやもやすることが多かったからだと思う。

例えば、SNSというのは「いいね」の数が多い発言やアカウントが影響力を持つ。この「いいね」の中身が「かっこいいね」や「なんとなくいいな」など、存在そのものに対するものであるうちは良いのだが、「私もそう思う」「同意する」という意味のものになってくると、ちょっと怖いなと思う。それはつまり、共感をより多く集めた者が力を持つということだからだ。

共感を集める者が力を持つ世界というのは、日本の村社会に似ているように思う。
村社会というのは、同類が集まって序列をつくり、頂点に立つ者の指示や判断に従って行動したり利益の分配を行ったりする閉鎖的・排他的な社会だ。そして、私が一番怖いと感じるのが、村社会のしきたりに異を唱える者や倣わないものは異端者扱いされ排除されるという点だ。共感が支配するSNSに居心地の悪さを感じる理由もこれと同じで、共感を集める者が力を持つ世界では、共感を多く集めることができない人や、多くの人が共感していることに共感できない人は排除されかねないということに怖さを感じるのである。

誰からも共感されない人や、誰からも見捨てられ自分でさえも捨ててしまいたいような感情。それらを見捨てることなく、見つめ、寄り添う、そういう素晴らしい音楽に私はこれまでたくさん出会ってきた。だからこそ、私は音楽の力に絶大なる信頼を寄せてきた。そしてこのアルバムに出会った今、再びそんな音楽の特殊な力を感じている。シェフの『Feeling』は、蔓延する共感の海に、厳かに静かに小さな石を投げていて、その石が水面に落ちる音は、個人が抱える違和感や誰にも共感されない感情にスポットを当てるかのように響く。その響きは、自分でもよく分からなかったもやもやとした感情に形を与え、寄り添ってくれるように感じられた。

シェフはこのアルバムで、現状に真っ向から「NO」を叩きつけたり、拒絶を表現しているわけでない。海に小さな石を投げるように、ささやかに、軽やかに、違和感を歌っている。しかし、そのささやかさや、何気ない空気感や雰囲気こそが、人を惹きつけているように思う。この絶妙なグルーヴはどのようにして生まれたのだろうか。

シェフは2017年にメンバーが脱退し、下村亮介の1人体制になった。1人でやるということは、楽曲の全てを打ち込みで作るといった方法も考えられる。しかし彼は、ゲストミュージシャンとともに生楽器と打ち込みを組み合わせたサウンドに仕上げた。
そのサウンドの中で、私が特に生楽器のグルーヴを感じたのはドラムだった。このアルバムのほとんどの曲でドラムを叩いているのは伊吹文裕というドラマーなのだが、ジャズに造詣が深い彼の生み出すリズムやグルーヴが、下村を自然体に導き、下村の奥にある本音を引き出している気がした。
また、4曲目の『dip out』では、トラック作成を元group_inou の imai に全て任せていたり、他の曲のゲストミュージシャンに関しても、下村が全信頼を寄せて演奏を任せているのだろうということが音から伝わってくる。

ここからは私の想像でしかないが、下村は1人体制になったことで、自分という個人にとことん向き合ったのではないかと思う。その結果、1曲目『Now’s the time』の冒頭の <足りなさも弱さも/そう 捧げ合い確かめよう/何はなくとも鼓動が止まるまで> というフレーズで表現されているように、自分の弱さを知り、また、自分個人の感情や感覚を取り戻すことができたのではないかと思う。そして個人を取り戻したことで自己を客観視できるようになり、自分が得意ではないところは信頼できる人に任せて音楽を作ってみようという気持ちが生まれたのではないだろうか。それは共感や連帯ではなく、個人が個人として、自分とは違う他の個人と繋がり、何かを一緒に作っていくという社会的試みだ。

そんな試みの末、ゲストミュージシャンが自由に鳴らす演奏の中で、下村亮介もまた自由を手に入れたように見えた。信頼できる人たちに任せた音によって、彼は以前より無防備に、自然に、ただ息を吸って吐くように、歌うことができている。だから、今まで出てこなかったような個人的な言葉も出てきたのだと思うし、この何気ない空気やグルーヴが生まれたのだろうと思う。

このアルバムの最後には、ASIAN KUNG-FU GENERATION の『踵で愛を打ち鳴らせ』という曲のカバーが収録されている。6年ぶりのオリジナルアルバムのラストが他のバンドの曲のカバーだということに、私は少し驚いた。
しかし、聴いてみると、そのカバーはこのアルバムのラストとしてこれ以上ないくらい最高だった。
だってめちゃくちゃ楽しそうなのだ。下村亮介もゲストミュージシャンもみんながみんな、めちゃくちゃ楽しそうに歌ったり演奏したりしている。
そうだ、音楽って底抜けに楽しいものなのだ。自分が作った曲じゃなくても、他のバンドの好きな曲をカバーするのだってめちゃくちゃ楽しい。the chef cooks me は、このアルバムの最後で、カジュアルに、気楽に、軽やかに、でも全力で音楽を楽しむ姿をリスナーに届けてくれたのだと思った。
それと同時に、かつて『song of sick』という名曲で、病的なまでに過剰に音楽を愛してしまう人たちの歌を歌っていた下村亮介は、今、新しい方法で、以前より少し客観的に、でもやっぱり大きな愛を持って音楽を鳴らしているということにも気づいた。

また、1曲目の独白から、ラストのゲスト全員集合で音楽を楽しむこの曲に辿り着くということにも、グッと来てしまった。
たった1人で自己に向き合い、個人としての感情や感覚を大事にし、個人として他の個人に出会い、共感や連帯ではない個人的な繋がりで社会を作っていく。
このアルバムは、それが可能なのだということを教えてくれているようだった。

<We are all alone / We are not the same>
<皆違う脈打つBeat/希望という名の碑に刻んで>(『Now’s the time』)

<あなたはただ一人だけ/何色にも染まらないで>(『AMBIVALENT』)

共感の海に溺れそうになるとき、こんなフレーズが、シェフの音楽が、そばにあるのだと思うと心強い。
『Felling』によって、自分だけの感情と感覚を取り戻すことができたとき、それが個人から出発できるときなのだと思う。

※ この文章は 2019年11月28日に「音楽文」に掲載された文章を加筆・修正したものです。


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