救いがない。
Negative Campaign が2019年11月にリリースした2nd Album『Negative CampaignⅡ』。
このアルバムの曲の歌詞には、まるで救いがない。
1曲目の『Primitive』から、もうどうしようもない。
ミュートしたカッティングギターに乗せて歌われる <そうやってまたすぐ人のせいにして/また当たり散らして泣き喚いて> という歌い出しから、すでに惨状が伺える。「また」と2回も言っていることから、同じ過ちを繰り返してうんざりしているのだろうと想像できる。
サビでは <あぁ、僕はいつだって/君にかける言葉が見当たらない/あぁ、僕はいつだって/何もできなくて/ただ突っ立っているだけ> <あぁ、君はいつだって/差し出した手をはねのけてしまって/あぁ、君はいつだって/繋いだ手を振りほどいてしまうんだ> と歌われる。あぁ、まったく、「僕」もどうしようもないし、「君」もどうしようもない。取り付く島もない。こんなんじゃ永遠に報われないし上手くいかないだろう。
11曲目の『Traveling Nowhere』にも、救いはどこにも見当たらない。サビがこれだ。
<どこにも行けないことわかってるんだよ
どこまで行ったってどこにも行けないまま
どこにも行けないこと確かめているの
どこまで行ってもどこにも行けない> (『Traveling Nowhere』)
この曲は 1st Album『Negative Campaign』に収録されていた『スーパーカブに乗って』という曲の続きの世界、あるいはアンサーソングのようにも聴こえる。ただ、<今夜スーパーカブに乗って/どこまでも行こうよ/その向こうのもっと向こうまで/行ってみたいんだ> と歌っていた『スーパーカブに乗って』では、明確な目的地や希望はないんだろうなという雰囲気は漂っていたものの、「その向こうのもっと向こうまで」という如何様にも解釈できる未知の領域がまだ残されていたのだが、『Traveling Nowhere』ではもう容赦なく何の救いもない。どこにも行けないことを確かめるためにどこまでも行くという、やけになっているか開き直りか逆ギレとしか思えない境地に達してしまっている。
Negative Campaign の歌詞には思わせぶりなところも全くない。自分を含めた誰のことも信用していないし、何にも期待していないからだろう、聴き手に対しても思わせぶりなことを歌わない。情景描写か、あけすけすぎる心情の吐露ばかりだ。でも、不思議なことに、聴いていて全然嫌な気分にならない。それどころか、なんだか笑ってしまう。笑ってしまうんだけど、そのあとで、なぜかじんわり心に残っていたりする。
9曲目の『Destroy The Moon』なんか、すごい。月に願いを託したり、月に届かぬ思いや叶わぬ恋を重ねてみたり、そんなロマンチックだったりメランコリーだったりする月にまつわる曲はこれまで数あれど、「Destroy The Moon」、まさかの月をぶち壊すという歌は初めて聴いた。この曲は、元カノが新しい彼氏と一緒に住んでいることを「僕」が知ってしまうという曲なのだが、キレイな満月を見た「僕」が <彼らのための月ならばいらないよ/Let’s destroy the moon> と言うのだ。歌詞だけ見ると情緒も何もないけど、「僕」の嫉妬とやるせない気持ちだけは、あけすけに痛いほど伝わってくるという、なんとも変わった曲だ。
しかし、こんなに救いがなくて、あけすけな心情吐露ばかりの歌詞が、 Negative Campaign のメロディーに乗ると、不思議とめちゃくちゃ気持ちいい。
前作『Negative Campaign』でも、そのメロディーメイカーとしての才能の片鱗はすでに見えていたのだが、今作ではその才能の爆発が始まっていると言っていいと思う。だって、全曲、シンガロングしたくなるようなメロディーなのだ。そのメロディーは、パワーポップを基調としながら90年代のJ-POPやブリットポップやオルタナやその他様々な音楽のエッセンスを取り込んだサウンドに乗ることで、「勢い」のようなものを身にまとい、さらに「気持ちよさ」を増幅させていっている。
例えば、2曲目『Empty Lamp』では <誰にでも優しくできる誰かを信じたくない/分かり合えないのなら立ち去ればいい> という辛辣だがどこまでも正直な本音を吐き出した後、<どうしてこうなっちゃったの/ねぇ、誰か教えてくれよ/なんでいつも僕ばっか/嫌になるな> というどこにもでもありそうな愚痴がサビで歌われるのだが、これがその素晴らしいメロディーに乗ると、ありふれた愚痴はまるで清涼飲料水のような爽快さに変わってしまう。
素晴らしいメロディーに乗って、救いのない歌詞が輝き出す。ここまでは他のバンドの曲にだってあることだと思う。だが、Negative Campaign の曲には、そこにもうひとつの要素が絡んでいるような気がする。それは「逆ギレ」だ。
『Empty Lamp』は直訳すれば「空っぽのランプ」だ。そのタイトル通り、この曲では空っぽの「僕」について歌われている。<言葉に意味を込めないで/まくし立てて煙吐いて/その場しのぎで笑う僕を笑えない> という、その場しのぎで過ごしている空っぽの僕、<どんな風景に心は動いてくれるんだ/問題ないならそれはそれで構わない> という、心が不感症になっているにもかかわらず事なかれ主義でそのままやり過ごそうとする僕。
この「僕」にはなんだか見覚えがある。自分の中にもこの「僕」は確かにいる。そして、少し乱暴な括り方になってしまうかもしれないが、30代の中にはこの「僕」と同じ心象風景を持つ人も少なくないのではないだろうか。4曲目の『スイカ』には <だいたい努力主義なんて柄に合わないんだ> という歌詞があるが、90年代の努力主義に振り回された挙句、その先の発展がまるでなかった世代であり、かと言って個人で何かを発信することはまだ難しく大多数が組織に属することを余儀なくされた世代である私たちの「何もない」「何者にもなれない」という感覚を、Negative Campaign の曲を聴いていると時々感じることがある。
かつて BUMP OF CHICKEN は『ランプ』という曲で <僕の中の情熱のランプ 今にもマッチは芯に触れる> と歌っていたが、空っぽのランプである Negative Campaign や私の中には芯がないから、火をつけることもできやしないのである。
だったらもう、空っぽのまま逆ギレするしかない。未来や希望を描く情熱もエネルギーもないから、ありふれた愚痴でも救いのない歌詞でも、ガンガン音楽にして鳴らしていくしかない。たぶん、この逆ギレの精神が、Negative Campaign の音には宿っているのだと思う。それが素晴らしいメロディーと化学反応を起こして、救いのない歌詞をこんなにも輝かせているのだろうし、聴く人をこんなにも爽快な気分にさせるのだろう。
もうひとつ、その爽快さにさらに拍車をかけているのが、「悪ふざけ」だと思う。
6曲目の『グッバイ、かにみそデイズ』は別れの歌なのだが、サビでせつないメロディーとギターリフに乗せて <グッバイ、かにみそデイズ/君に出会えて本当によかった> と真面目な声で歌うのだ。なんだ、かにみそデイズって。空耳アワーか。昔、L’Arc~en~Ciel の『HONEY』 の「honey so sweet」が「かに雑炊」にしか聴こえなくなったこと思い出したわ、と思わずつっこみたくなってしまうが、適当な英語で歌うことだってできるのに、真面目に「かにみそデイズ」と歌うその悪ふざけには、「ふざけた歌詞でも曲が良ければ感動しちゃうんでしょ」という皮肉も込められているのかもしれないし、実際そのメロディーの素晴らしさと歌詞のはまりの良さにうっかり感動してしまっている自分がいる。
そんなわけで、『Negative Campaign Ⅱ』は、何にもなくて、逆ギレぐらいしかすることが残されていない私にとって、最高に気持ちいいアルバムだった。
救いのない歌詞を逆ギレしながら、時々悪ふざけもしながら、とにかく最高のメロディーとバンドサウンドでガンガン鳴らして、最後の曲はたった1分で、やっぱりシンガロングしたくなるようなメロディーで <君のことなんて僕は信じちゃいない> とあっさり吐き捨てて終わるところまで、本当に気持ちいい。逆ギレ成功だ。
ところで、この『Negative Campaign Ⅱ』は前作からわずか10ヶ月という短いスパンでリリースされたのだが、なんと3作目『Negative Campaign Ⅲ』がもうすぐ、2020年4月にリリースされるのだという。なぜそんなにすごいスピードでリリースできるのだろうと驚いてしまうが、もしかしたら彼らは逆ギレと悪ふざけで行けるところまで突っ走るつもりなのかもしれない。普段なら迷惑極まりないその逆ギレも、最高のメロディーさえあれば、一瞬だけ輝く何かに変わる、そんなマジックをこれからも見せてほしい。
※ この文章は 2020年2月28日に「音楽文」に掲載された文章を加筆・修正したものです。