Now Playing Negative Campaign - ありきたりのその先へ -

ある雑貨店のBGMでかかっていた曲が気になって、店内のビジョンを見上げると “Now Playing Negative Campaign” という文字が映し出されていた。咄嗟にスマホにその文字列を入力し、家に帰ってから検索してみたら、BGMでかかっていたその曲がすぐにYouTubeで見つかった。『スーパーカブに乗って』という曲だった。それを何回か繰り返し聴いた後には、今年1月にリリースされたというセルフタイトルのファーストアルバム『Negative Campaign』を購入していた。

それから、ほかの音楽を聴いていても、すぐに『Negative Campaign』が聴きたくなった。聴いていると、なんだか落ち着いた。肌に合う感じがした。

でも、なぜ自分がそんなにこの音楽を求めるのか、自分でもよくわからなかった。
「Negative Campaign」というバンドは、一言で言ってしまえば WEEZERの影響を受けたであろうギターロックバンドで、そんなバンドはこれまでも今も星の数ほどいるし、演奏テクニックが飛び抜けているわけでもないし、目新しいリズムやリフがあるわけでもない。歌詞だって、斬新な文体や比喩があるわけでもない。

リード曲の『スーパーカブに乗って』も、リズムやリフや歌詞といった一つ一つの要素は、なんだかありきたりなものに聴こえた。

だけど、聴いているうちに、その一見ありきたりな要素の組み合わせによって立ち上がってくる物語や、映し出されるシーンにいちいち引き込まれ、ハッとさせられている自分がいることに気づいていった。そして、その立ち上がってくる物語も、ありきたりのようでいて、妙に生々しかった。もっと具体的に言えば、その物語は「激務の最中にいる人の暮らし」に聴こえたのだが、それはかつての自分の物語であるかのように感じられるほど、生々しかった。

残業続きで働き詰めでやっと辿り着いた休日は朝から雨で、せっかくの休みだけど疲れ果てているので一日中寝てしまう。目が覚めたら夕方で、また明日は仕事だから、本当はこのまま家にいてまた眠った方がいいのだが、どうしてもこのまま休日を終わらせたくない。だから、雨も上がったことだし、無理矢理、もう夜だけど出かける。

明日のことを、現実のことを考えたら、早く帰った方がいい。街はすでに「まばらな灯り」で、世の中の人たちは休日を終わらせようとしている。そんな夜に、Negative Campaign は <沈んだ夜にそっと出かけてしまおうよ> <今夜スーパーカブに乗ってどこまでも行こうよ> と歌う。

キックスターターを蹴飛ばして、スーパーカブで走り出した主人公は、やがて追い詰められている心情を吐露し始める。

<『昨日が今にきっと繰り返されるよ』なんて言わないで>

<どういうスタンスでいればいい/誰か教えてよ、ねぇ
 昨日のお下がりじゃない明日はどこにあるんだ>

<裏切られたくないのなら/何も求めなければいい>

<まだ僕は
 生きているって確かめているんだ
 変わり映えしない日々に消えそうで>

別に悪い事はしていないし、毎日仕事をしているのに、人生が好転していく兆しもない。それどころか、前に進んでいる気すらしない。昨日と同じ今日が繰り返されるか、昨日の劣化コピーの今日が繰り返されるか、そんなのばっかり。昔は中村一義を聴いて <死ぬように生きていたくはない> って思っていたはずなのに、今や生きている実感がまるでない。そして疲れ果てた僕らは、新たに傷つく気力もなくなり、何も求めなくなる。

溜め込んでいた感情をぽつりぽつりと道に落としながら、スーパーカブを走らせる主人公には目的地があるわけではなさそうだ。
この曲で歌われる「今夜」はどこか明確は場所につながっているわけではない。その先に希望があるわけじゃない。だから救われることはないのだが、その代わり、どこへでも行くことができる。

そこではたと気づく。このバンドが表現しようとしているのは、誰も見たことのない「その先」なんじゃないだろうか。

Negative Campaign は「幸せ」や「一般論」に対して懐疑的だ。「大体こういうレールに乗れば幸せになれるよ」とか「みんなそれくらいは我慢しているよ」とか、そういう無責任に放たれる一般論こそ、人を追い詰めるのだということを知っている。だから、アルバムに収録されている『ペシミスト』という曲では、<幸せの裏側は/得体の知れない黒いものでびっしり>と歌ってみたりして、幸せや一般論の裏側にあるものを、ポロっと吐露してみせる。まさに「Negative Campaign」だ。

それから、新しいものが自分を幸せにしてくれるとは限らないということも、Negative Campaign は知っている。

だから、最新でも高級でもない、だけど頼りになって落ち着く「スーパーカブ」に乗るのだろう。そして、最新ではないサウンドで、超絶テクニックでもない演奏で、どこにでもありそうな言葉で歌うのだろう。どんなサウンドにだって、手を出そうと思えば手を出せるこの時代に、ちょっと間違えたら陳腐になってしまう、劣化コピーになりかねない、そんなありきたりなサウンドの「その先」にしか、自分が生きている実感は見つけられないんだという確信の元でこの音を鳴らしているんじゃないかと思う。

そう、Negative Campaign の音楽にこんなにも惹かれてしまうのは、生きている実感に手を伸ばしていた頃を思い出させてくれるからなのかもしれない。最低限のエフェクターを抱えてバンドを始めたあの日の空気、感情のままにクレッシェンドをかけるスネアとシンバル。明日のことなんか知らない、世間のことなんかどうでもいい、一般論には逆ギレしてやる、「ありきたり」のその先で生きている実感だけ手に入れてやる。死ぬように生きていたくはない。 Negative Campaign の音楽には、そんなバンドを始めた頃のような熱気や匂いが閉じ込められている。

休日がもうすぐ終わろうとしている夜、そんな夜にこそ、ありきたりのその先がわずかに見えたりするものだ。
そんな夜に、Negative Campaign の音楽を聴いてみれば、少しだけ、生きている実感に手を伸ばしてみようという気がしてくる。

“Now Playing Negative Campaign”

※ この文章は 2019年4月26日に「音楽文」に掲載された文章を加筆・修正したものです。