2011年へ

 今年、私が一番だと思う曲は、Base Ball Bearの「新呼吸」でした。

 この曲を試聴したとき、とても驚きました。この曲を何十回も聴いた今、振り返ってみると、その驚きはだいたい次の2点だったと思います。

 ひとつめは、今まで「爽やかで甘酸っぱい曲をつくる優等生的なバンド」だと思っていたベースボールベアーが、こんなにもコピーされる日々に対する無力感を赤裸裸に歌っていたということです。

 ふたつめは、今年自分がずっと感じていたことが歌になっていたからです。

 最初の歌詞はこんな感じです。

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  定点観測した僕の日常は ありふれたであふれたつまらないもの
  にせものみたいな食事を済ませたら 見せかけの白いシャツを洗う
  ただくり返すだけでさ すでに飽きてる
  『ささやかな幸せこそ』それもわかってる
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 吐き気のしそうなループと、変わりたくて変われなくて変わりたい日々のこと。

 今年は、身体的にも言語的にも呼吸をすることが極めて難しかったです。

 吐き気がしても吐けない苦痛、吸いたくても吸っていいのか分からない困惑。

 そんな中、この「新呼吸」という曲は(この曲が収録されているアルバム「新呼吸」全体もそうだけど)、ベースボールベアー自身が、吐いて、吸って、吐いて、吸って、息をするためにつくったんじゃないかなと思いました。

 アルバム全体を通して、嘔吐したり、新しい風を吸い込んだりするけれど、最後の「新呼吸」でもベースボールベアーは「はい、変われました!」とも「こうすれば変われますよ!」とも言いません。<あたらしい朝が来れば 僕は変われるのかなぁ>って何度も繰り返し言います。

 でも私は、この曲を聴いていると、ベースボールベアーと一緒に吐いて吸うことができました。そんなことができたのはこの曲を聴いているときだけだったかもしれません。

 <そしてまたはじまりつづけてく平熱な僕の毎日は無意味に無駄に降りつもる>というフレーズで吐いて、<それでも僕は信じれるかなぁ/この一分が、この一秒が明日への伏線になってくと>で吸って。

 そうすると一瞬でも心が整えられる感じがしました。

 2011年に呼吸をしていた日本人の一人として、私はこの作品に全身全霊の拍手を捧げたいです。

 ベースボールベアーのみなさん、「新呼吸」をつくってくれてありがとう。

新呼吸(初回生産限定盤)

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