KINOSHITA NIGHT 2023

KINOSHITA NIGHT 2023
2023年10月15日(日)@ Zepp DiverCity Tokyo

木下理樹の45歳生誕祭として開催された「KINOSHITA NIGHT 2023」に、
ART-SCHOOLsyrup16gPOLYSICS という UKP所属の同世代激濃厚バンドが大集結。2000年代初頭からこの3バンドを聴いていた世代にとっては、2023年にこの対バンを目撃できるなんて、奇跡の夜。チケット取れてマジでよかったぜ。

トップバッターは、POLYSICS !!!!!!!!!!!

セットリスト
1 Birthday(The Beatles
2 Let’s ダバダバ
3 Young OH! OH!
4 Funny Attitude
5 Stop Boom
6 MAD MAC
シーラカンス イズ アンドロイド
SUN ELECTRIC
9 UGRE ON!!
10 カジャカジャグー

1曲目、Beatles の『Birthday』で「理樹のバースデー」と歌い、祝福と共にイベントは幕を開けた。
2曲目で早速『Let’s ダバダバ』!楽しすぎる!『Young OH! OH!』のギターソロもかっこいい!
シーラカンス イズ アンドロイド』を聴いているときは、モーサムの『TRIGGER HAPPY』とか、あの辺のあの頃の空気感をなんとなく思い出した。

MCもめちゃくちゃ楽しくて、
「この3組だと ポリは浮いて見えるかもしれないけど、実は昔から結構親交がある。2000年代初頭は対バンしてたし、キタダさんと(ハヤシさんは)ポリの前にバンド組んでたこともある。」とか、「理樹とは同い年で、オルタナティブなことをやってるところが共通してる」とか、「木下理樹に初めて会ったとき、『ライブよかったよ!JOY DIVISION 好きでしょ!』と話しかけたら『あ~~~~~~~~(めっちゃためて)好きだねえ』って言われて、でもその後全然盛り上がらず会話もなかった。なんだこいつ、って思ったけど、次の対バンのときまた話しかけたらなぜか盛り上がって肩組んでホテルまで帰った」とか、フミさんは「木下理樹が財布落としたとき、『大丈夫?お金貸そうか?』って聞いたけど、理樹の鞄の中の小銭をかき集めたら6000円もあったから貸さなくてすんだ」とか。

で、楽しい雰囲気のまま曲に突入すると、終始バキバキのかっこよすぎる演奏で、ライブって本当にいいものだなと思わされた。あと、とにかくフミさんのベースがかっこよかった。
ラスト『カジャカジャグー』(思い出の2003年リリース)で、めちゃくちゃ楽しい最高潮の気分の中で、POLYSICS のライブはあっという間に終わってしまった。


二番手は、syrup16g !!!!!!!!!!!!!!

セットリスト
1 新曲
2 新曲
3 新曲
4 新曲
5 神のカルマ
6 生活
7 天才
8 落堕

1曲目、これは知らないイントロだ、、、
既存曲の違うアレンジなのか??? いや、新曲だ・・・!!!
2曲目、これも知らないイントロだ、、、
既存曲の違うアレンジなのか??? いや、新曲だ・・・!!!

やばい、これは、シロップの新曲祭りだ!!!
ライブでいきなり誰も知らない新曲を何も言わずに連発するやつだ!!!
シロップが2005年頃によくやっていたアレである。あのときのことを思い出す。なんとかメロディーと歌詞を覚えて帰ろうとした、あのときのことを。それを2023年にまた体験できるとは、、、感無量だ。
五十嵐が「全部新曲やりまーす。嘘、あと2曲やります」と言う。
あと2曲も新曲あるんか!!!すごいぞ五十嵐!!!
3曲目の新曲は、ベースがかっこよかったのと、「子供部屋おじさん」っていう歌詞が印象に残っている。
4曲目の新曲は、なんかちょっとだけアートスクールっぽさを感じた。「つまらない君が好きだった」「だらしない君が好きだった」「開き直る君が好きだった」「金がない君が好きだった」「妬まれる君が好きだった」と、同じメロディーを繰り返すのが印象的。
あと、どの曲か忘れたが、「遊んで暮らすために働いている」「半年で本性バレる」という歌詞もあった気がする。

その後は、『神のカルマ』→『生活』→『天才』→『落堕』というぶち上げ曲連発。木下理樹の誕生日だというのに、しっとりした曲は一切なしで、MCもなしに激強曲を叩きつける、、、と思ったらラストの『落堕』で曲に乗せて「木下理樹誕生日おめでとう!!!」と五十嵐が叫んだ。
なんだその粋な祝い方!!!惚れてまうやろ!!!私が木下理樹だったらもうシロップにメロメロだ!!!

3人の演奏は、対バンイベントでワンマンより短い時間だからか、いつもに増してバキバキで、なんか不思議と POLYSICS との同世代感というか共通項を見た気がした。



そしてトリは、ART-SCHOOL !!!!!!!!!!!!!

セットリスト
1 Moonrise Kingdom
2 アイリス
3 EVIL
4 foolish
5 クロエ
6 プール
7 サッドマシーン
8 Just Kids
9 ロリータ キルズ ミー
10 FADE TO BLACK
11 Bug

アンコール
12 スカーレット
13 ニーナの為に

久しぶりに見た ART-SCHOOL、びっくりした。轟音シューゲイザーバンドやん。この日は転換でずっと My Bloody Valentine がかかってたんだけど、まさか ART-SCHOOL がここまでマイブラかってぐらいのシューゲイザーになっているとは思わず、本当に驚いた。笑っちゃうぐらいの迫力で、やっぱり藤田勇のドラムと中尾憲太郎のベースが合体するとここまで凄いことになるんか、というのを目の当たりにした。

始まりは『Moonrise Kingdom』で、この曲の「エーテルを感じたんだ」っていう歌詞に私はずっと「?」って感じだったんだけど、この日のライブでその意味が完全に分かった。なんてことはない、シューゲイザーを聴いているときに感じる、今この瞬間だけが拡大されて宇宙まで届きそうになる、あの感覚のことだったのだ。

そんで『EVIL』でもう一気にぶち上がり。だってこれ、初めて上京してきた2003年の春に4曲入りのシングルでリリースされたやつで、私の東京生活の始まりの曲だったのだ。いや、まさか、それが今日この迫力で聴けるとはね。めちゃくちゃかっこよくて、安心したし、私の中の ART-SCHOOL が更新された。

そこからも思い入れのある曲ばかりで、ずっと夢中で聴いていた。
夕陽ポプラテニスコートで何かが振り切れてしまうなんて当然だろ、ART-SCHOOL好きなら。
『プール』が聴けたのも、ほんとにうれしかったなあ。
最新の『Just Kids』や『Bug』が、2000年代初頭の曲の中に挟まっても違和感がなかったのも良かった。

木下理樹は、何度も POLYSICSsyrup16g と 今日来てくれた人に感謝を述べていた。
それから、「ライブが始まる前に syrup16g の楽屋に行って、五十嵐さんに『今日何やるんですか?』って聞いてセットリスト見せてもらったら、俺シロップすごい好きだから曲全部知ってるはずなのに、知らない曲が並んでて、『え?』って思ってたら、五十嵐さんが『新曲だよ。誕生日プレゼント』って」と言っていて、「なんそれ!!!惚れてまうやろ!!!」って再びなりました。考え得る限りこの世で最高の誕生日プレゼントだね。木下さん、本当におめでとう!!!

ギターの戸高さんは、「恥ずかしながら久しぶりにシロップのライブを拝見したんですけど、いきなり新曲で、すごいヒリヒリしてて、、、飴と鞭がすごい。シロップのお客さんはどういう気持ちなんだろう。シロップレベルになると、こういうプレイなんですね」みたいなことを言っていて、そうですね、こちとら6年間放置プレイとかありましたからね、、、って思いました。あと、戸高さんが「アートに入った時に初めて買ったエフェクター持って来ました」と言って『スカーレット』が始まったのも感慨深かった。

ラストは『ニーナの為に』で歓喜。ええ曲や。。。
昔の ART-SCHOOL はライブに波があったから、今回もそんなに期待してなかったんだけど、本当にいいライブだった。

木下さん、誕生日おめでとうでした!!!いつまでもお元気で!!!



[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

luminous [ ART-SCHOOL ]
価格:3,300円(税込、送料無料) (2023/10/19時点)


[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

Just Kids .ep [ ART-SCHOOL ]
価格:1,260円(税込、送料無料) (2023/10/19時点)


UNDER THE COUNTER ONEMAN LIVE 「 Hello, Today 」

2023年10月7日、渋谷LUSHで開催された UNDER THE COUNTER の ワンマンライブ 「Hello, Today」 に行ってきた。

2013年に解散した UNDER THE COUNTER の、10年ぶりの一夜限りのライブ。(オリジナルメンバーでのライブは13年ぶり)。発表されたときは、なんだか信じられない気持ちだったが、すぐに、これはなんとしても行かなければいけないやつだ、と思った。

当日、ライブハウスに入ると既に人がいっぱいだった。わりと後ろの方だったので、ステージはあまり見えなかった。

でも、ライブがはじまると、そんなことはどうでもよくなるくらい最高の気分になった。10年ぶりとは思えない強靭な演奏、クリーンなギターと疾走するリズム隊の見事なアンサンブル、関谷謙太郎のあの声、あの眼。あの日のままの UNDER THE COUNTER がそこにいた。

『pepe』で幕を開けたそのライブは、これまで UNDER THE COUNTER が私に与えてくれたものを再確認していくような、そんなライブだった。
特に、3曲目の『モダンライフ』で思わず涙が溢れたときには、このバンドが自分にとってどれだけかけがえのないバンドだったかということを、完全に思い出した。

< 訳もなく街へ出た 欲しいものもないのに
 あてもなく歩くだろう 満たされやしないのに >

< 何となく頷いた 傷つくことないように
  それとなく笑うだろう 笑いたくもないのに >(『モダンライフ』)

この曲に今でも涙が溢れてしまうのは、UNDER THE COUNTER が、生活の中にへばりついたやるせなさとそれに振り回される一人の人間のリアルを、ずっと歌ってきたからなのだろう。不思議なことに、2005年のリリースから18年経った今でも、この曲の中に出てくるやるせなさは、今の私のやるせなさと同じだった。まあ、名曲というのは、そういうものなんだろう。

『sohappy, unhappy』を聴いているときにも、「ああ、これだから UNDER THE COUNTER が大好きだったんだよなあ」とつくづく思わされた。

< ソウハピーです 誰にだって僕はなれるから
  アンハピーです 同じように誰にだってなれやしない >

< ソウハピーです 何処へだって僕は行けるから
  アンハピーです 同じよう何処へだって行けやしない >
(『sohappy, unhappy』)

私たちの生活や感情は一筋縄ではいかない。いつだって「sohappy」と「unhappy」の間で、その両極に数秒ごとに揺れてしまう。その、ただ毎日を生きていくことの難しさ。誰にでもなれるようで誰にもなれない、何処にでも行けそうで何処にも行けない、成功者の結果論を読んだところでどうにもならない、人生の困難さ。そう、それこそが、音楽にするしかない、ロックバンドが鳴らすしかないものなのだ。

ベースの大隅さんがどうしてもセットリストに入れたかったという『ノー・セラピー』も、そんなロックバンド・UNDER THE COUNTER のかっこよさが詰まっている曲だと、改めて感じた。

< I can’t get no therapy
I can’t get no therapy
明日はただの今日のつづきさ
 出口はあるの? このスパイラル >(『ノー・セラピー』)

つらいことはあって、だけど治療法はなく続いていく生活と人生のしんどさ。UNDER THE COUNTER は、その中でただただ心が揺れる様を、右往左往する様を歌う。

< 退屈凌ぎにガムを噛む
  味なくなったらすぐに吐く 
  それ踏んじまって 
  へばりついちゃって
  あたまにきてまたガムを噛む >

< やることないので煙草吸う
  短くなったらすぐに消す
  空気汚れて 
  外へ出たけど 
  所在がないので煙草吸う >(『ノー・セラピー』)

そこには分かりやすい救いだとか簡単に手に入る希望だとか確実な治療法だとか、そんなものはない。ただ、なんとも言えないスパイラルの中でうろうろする、やたらリアルな人間の姿があるだけだ。
だけど、それこそが私にとっては、とても誠実でかっこいいことに見えた。こんなロックバンドが今ここにいてくれるのって最高だって、やっぱりこの日も思ったのだった。

また、UNDER THE COUNTER は、疾走感のある曲もいいけど、『賛美歌』や『Teenage Wasteland』のような聴かせる曲も最高だ。
『賛美歌』の <手を合わせ祈っても神様は僕の中/ひざついて誓っても神様はキミの中 > というフレーズは、あの頃よりも今の時代に聴いてこそ深く沁みるし、「青春とは何だったのか」と言う関谷さんのMCからの『 Teenage Wasteland 』には、40歳の UNDER THE COUNTER の青春を感じて胸が熱くなった。

アンコールの最後の曲は、『Hello, Today』だった。
この日のライブのタイトルであり、私が UNDER THE COUNTER に出会った最初の曲であり、今でもやっぱり一番好きな曲である『Hello, Today』。
救いも希望も治療法もない、一筋縄ではいかない、昨日の同じような今日が続く生活の中で、それでも薄暗い部屋で、煙草の煙の中、フラフラ立ち上がり、今日に力なく「ハロー」と告げる。それは、完全に、私のすべてに寄り添ってくれるロックだった。NIRVANA は < Hello, hello, hello, how low > と歌ったが、UNDER THE COUNTER は < Hello, Today > 歌ったのだ。
この日の『Hello, Today』も、それはそれは凄まじく、無気力と気怠さを蹴飛ばし、心に火をつける、そんな不思議な力に満ちていた。
この曲の1分30秒を超える最高のアウトロが鳴っている間、ああライブが終わってほしくない、UNDER THE COUNTER が終わってほしくない、ずっと続いてほしい、と願っていた。

アンコールが終わって、客電が点いても鳴りやまない拍手。
関谷さんが出てきて、「もうやれる曲がほんとにないの」と言うが、その後メンバー全員出てきてくれて、「今日やった曲の中からでよければもう1曲やる」と言ってくれて、『モダンライフ』が再び演奏された。客席のものすごい盛り上がり。私も拳上げまくり、ジャンプしまくった。

< いつからか僕たちは不確かに生きのびて
  どこからか呼ぶ声がしたようで立ち止まる
  耳をすましてみれば > (『モダンライフ』)

この『モダンライフ』の最後のフレーズが、今回メンバーにライブをやろうと声をかけた大隅さん、ずっと UNDER THE COUNTER を聴いて心のどこかで待っていたファン、生きのびてこの日ここに足を運んだ人、そして見事に復活した UNDER THE COUNTER、そのすべてのことを予言していたかのように聴こえた。

それから、この日、印象的だったのは、激しい演奏とはうってかわって、和やかで楽しそうな曲間のMCの雰囲気だった。関谷さんが何度も「こんなに集まってくれてありがとう。ずっと好きでいてくれてありがとう」と言ってくれたのも、すごくうれしかった。

ライブが終わってからも、ずっと UNDER THE COUNTER を聴いている。
こんなに名曲だらけの、かっこいいロックバンドが、一夜だけしかライブをやらないなんて、もったいないなあと思う。これからも、もっと見たいのになあ、と思ってしまう。
でも、< 僕らは曖昧で思いがけない日々を生きてる >(『GREAT GREEN』)から、いつかまた会える日が来るんじゃないかと思っている。

とりあえず今は、こんなに素敵な夜をくれてありがとうと、UNDER THE COUNTER に伝えたい。
ずっと大好きだ。


2023年8月31日

8月に聴いていた音楽です。

□「Bilk Unplugged」Bilk
□「Exorcism of Youth」The View
□「Day feat. PUNPEE」Nulbarich, PUNPEE
□「しんぱいないし もんだいない。」DRUGONDRAGON


[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

エクソシスム・オブ・ユース [ ザ・ヴュー ]
価格:2,750円(税込、送料無料) (2023/10/11時点)


People In The Box 『Camera Obscura』

バランスが変わった。
それが『Camera Obscura』を聴いた後、最初に抱いた感触だった。

2023年5月、約4年ぶりにリリースされた People In The Box(以下「ピープル」) の 8th Album『Camera Obscure』。
このアルバムは、寓話と隠喩によって強烈に現実を炙り出してきたこれまでの People In The Box の作品とは少し感触が異なる。今作においても寓話や隠喩はそこかしこに存在しているのだが、その隙間に剥き出しの現実がぼこぼこと乱立している。そのため、寓話と現実のバランスがこれまでと変わったように感じたのだ。そして、その炙り出すまでもなく乱立する「剥き出しの現実」は、まるで地響きの後に割れた地面の間から咲きこぼれた花のような生々しさと美しさと悲しさに満ちている。



『Camera Obscura』というアルバムタイトルや『水晶体に漂う世界』という曲名からも窺えるように、今作でも「視線」や「見る」「見られる」ということがひとつのテーマになっていることはまず間違いなさそうだ。「今作でも」と書いたのは、前作の『Tabula Rasa』においても「視線」がテーマのひとつだったからだ。そういう意味では『Camera Obscura』は『Tabula Rasa』の地続きにある作品だと言えるだろう。しかし、『Tabula Rasa』では当初自分が「見られる」側であったのが最後には「見る」側に反転して終わるという構造になっていたため、そこにはある種の希望があるようにも思えたのだが、『Camera Obscura』ではそうはいかないようだ。

まず、『Tabula Rasa』では「見る」主体となった自分というものが、『Camera Obscura』では最初から揺らいでいる。
だって、1曲目が『DPPLGNGR』なのだ。
ドッペルゲンガーとは、自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、自分とそっくりの姿をした分身のことも指す。しかも曲名の『DPPLGNGR』は、ドッペルゲンガー「DOPPELGANGER」という単語から母音が失われた、子音のみの表記になっている。この2点だけを見ても、すでに自分というものの半分が失われてしまっていることが窺える。ドッペルゲンガーによって、自分を構成していた母音のような部分が完全に失われてしまったのだろう。(※1)
そしてそれは、私に村上春樹の小説『スプートニクの恋人』に登場する「ミュウ」という人物を連想させる。「ミュウ」はある時、異国の遊園地の観覧車の中からドッペルゲンガーを見てしまったことで自分の半分を失い、性欲を失い、髪の毛が真っ白になってしまう。
この曲の最後の <また会えたね/別人だよ> というフレーズでは、<別人だよ> で突然声が本当に別人になったかのように変わるのだが、その唐突さと呆気なさと恐ろしさが、また私に「ミュウ」の幻影を見せる。髪の毛を黒く染めた「ミュウ」がどんなに見た目は以前と同じように見えたとしても、自分を半分失ってしまった者にとってはもはやそれは自分とは言えない「別人」なのだと、「ミュウ」にそう語りかけられているような気がしてくる。
また、2曲目『螺旋をほどく話』に登場する <表面上は前と同じさ> というフレーズからも、自分の中身が以前とは完全に違うものになっていることが示されているように思う。

では、『Camera Obscura』の中の人物は、一体なぜドッペルゲンガーを見てしまったのだろうか。
1曲目『DPPLGNGR』の冒頭から、<意味などないのに/気にしてしまうよ/あの視線を> と、「視線」というワードが提示されるが、この人物が「気にして」いる「あの視線」とは、ドッペルゲンガーからの視線のことなのだろうか。だが、この段階では、視線がどこからどこへ向かっているのか、どういったものなのかといったことは、まだ曖昧でよく分からない。(※2)
2曲目『螺旋をほどく話』では <視線や憂いは在ない幽霊さ > と、一旦視線の存在を否定してみせるが、それでもやはり常にどこからか視線を感じる。その後、戦争がはじまり、経済が石化し、スマート製品に人生を奪われ、そうこうして辿り着いた8曲目の『水晶体に漂う世界』を聴いたとき、ゾクっとした。視線の正体がなんとなく分かってしまったからだ。

< 視線を感じて振り返る、ララララ
ローリング、サウンド、カメラ、セット、アクション >

ドッペルゲンガーは自分が所有しているスマート製品の中にいる自分なのではないか、という考えが一瞬過ぎったのだ。
そう考えると、ここで言う「視線」とは、スマート製品のカメラに映る自分からの視線のことなのだろうか。
だとすれば、ドッペルゲンガーの問題は『Camera Obscura』の中の人物や「ミュウ」だけの話ではとどまらない。スマート製品を所有している私たち全員の問題だ。
私たちはスマート製品と生活を共にするうちに、いつの間にか自分の中身をスマート製品に明け渡してしまった。その結果、自分の半分は現実にいるが、もう半分はデジタル上、スマート製品の中(カメラロールやSNS等のネット上)にいる、という奇妙な現象を立ち上げてしまった。それはまさに自分の母音をスマート製品に奪われている状態であり、自分を半分失っている状態と言えるだろう。

だから、この曲には太陽の光に溢れた牧歌的なイメージを感じるにも関わらずどこかにずっと不穏が漂っているし、 <液晶は指に溶ける> というフレーズには、スマート製品の中に自分が吸い込まれていってしまうような怖さを感じる。そして、最後に <ステイ、気づかないふりをしていろ > と何度も言っているのは、気づいたことがバレてしまったら、こちら側の自分があちら側の自分に回収されてしまうからなのだろう。青空が広がる晴れた平和な白昼に、私たちはこちら側の自分まで奪われてしまいそうになる。そのことに気づいたとき、この曲の牧歌的な明るさは、まるで本当に危険なものは便利さや快適さや分かりやすさといった明るいものとして近づいてくる、と言っているかのようだと思った。

だが、ピープルは最後にそれを食い止めようとする。
『水晶体に漂う世界』の次の曲であり、アルバムの最後の曲である『カセットテープ』で、こちら側の自分があちら側に回収されてしまわないようになんとかしようとして、<窓の外は磁気の嵐/映画が人類(ぼく)を観ている > とデジタルに取り囲まれ「観られる」側になってしまっている状態から、<カセットをセットして/初めて音楽を聴く> のだ。
なぜなら、カセットで音楽を聴くことは、スマート製品とは関係ない場所に存在する事象であり、スマート製品から音楽も自分も分離させる方法だからだ。それは、再生回数やインプレッションがすぐに反映されて可視化される世界から音楽や自分を引き剥がすことでもあり、<いくら呼んでも返答のない世界> を生きることでもある。本来、答えなんかすぐに返ってこなくていいし、常に誰かの反応や視線なんか気にしなくていいのだ。私たちはただカセットプレーヤーから流れてくる音楽を聴いているだけでいいはずで、<目醒めて夜を待つ/ただそれだけでいて、いいはず > なのだ。

しかし、それでもなお、<意味などないけど/なぜあの視線を無視できない > と歌われるように、視線から完全に逃れることはできない。また、<優しいポルターガイスト/放っておいても問題ないよ> と繰り返し歌われるが、それを打ち消すようにカセットのテープは破損したかのように乱れ、やがて途切れてしまう。それは、ドッペルゲンガーの視線に気づかないふりをして、放って過ごしていても、いつかは捉えられてしまう、という風にも考えられるし、デジタル上にあるデータが劣化することはないが、現実にあるカセットテープや人間はいつか必ず衰え壊れていくということを示唆しているようにも思える。現実の方に存在していた音楽や人間が消滅しても、デジタル上にあるもう半分の音楽や人間は劣化しないまま、そこに存在し続けるのだ。それは改めて考えてみると、やはりちょっと奇妙なことだと思う。

そして『カセットテープ』を聴き終わる頃、この曲が1曲目の『DPPLGNGR』へと続いていることに気づく。
『カセットテープ』の <意味などないけど/なぜあの視線を無視できない> は、『DPPLGNGR』の冒頭の <意味などないのに/気にしてしまうよ/あの視線を> に繋がっているし、『DPPLGNGR』のイントロの磁気のような音やテープが乱れているような音は、『カセットテープ』の後の世界、カセットテープが壊れた後の世界のようにも聴こえる。

どうやら『Camera Obscura』は最後の曲と最初の曲が繋がり循環している世界のようだ。
そう気づいてから、もう一度最初からこのアルバムを聴いてみる。

すると、『DPPLGNGR』の <ここはどこだろう/帰りたいよ> という部分は、カセットテープが壊れずに存在していた世界に帰りたい、という風にも聴こえてくる。1周目に聴いていたときは、「ここ」や「帰りたい」場所がぼやけていたのが、2周目では「あの場所のことではないか」という心当たりが増えてきて、だんだんピントが合ってくるのだ。それから、<また会えたね/別人だよ> というフレーズも、1周目では上記(※1)(※2)の辺りで述べたように「なんらかの理由でドッペルゲンガーを見たことにより自分の半分を失ってしまったのだろう」と感じていたが、2周目では自分の半分どころかもう半分もスマート製品側に回収されてしまった、というようにも聴こえる。

そして『螺旋をほどく話』の <表面上は前と同じさ> を聴いた瞬間、ハッとした。
そう、表面上は、1周目に聴いていたアルバムと2周目に聴いているアルバムは全く同じはずなのだ。録音された同じ曲を同じ順番で聴いている。だが、全く同じはずなのに、循環している構造と1周目で感じたドッペルゲンガーの視線が頭にインプットされた状態で聴く2周目は、1周目とはまるで違うのだ。それは、まさに <また会えたね/別人だよ> を体現している。ヤバい。People In The Box はこれだからヤバい。ゾクっとした。

同じ曲を同じ順番で聴いているはずなのに1周目と2周目は違うし、2周目と3周目も違うし、3周目と4周目も違うし、そうやって私の中に立ち上がる『Camera Obscura』は永遠に変異していく。カセットを何度も何度も巻き戻して繰り返し聴いていけば、テープが擦れてやがて少しずつ音が変化していくだろう。それと同じように『Camera Obscura』も何度も何度も繰り返し聴くたびに、聴いた人の中で変化していく。スマート製品の中で永遠に変化しないデータであっても、人間が聴くことでその音楽は変化していくのだ。

だから、『カセットテープ』の最後のテープが乱れていく音も、今は希望だとも絶望だとも言い切れない。それはいつ聴くか、何周聴くかによって、その人間の中で姿を変えていくだろう。あるときは生々しくそこにある現実として、あるときはデジタルの側に全てを奪われていく感覚として、またあるときは今はまだ想像もつかない何かとして、私たちの中に現れるのだろう。




『Camera Obscura』を最初に聴いたときに感じたバランスの変化、その理由はピープルがこれ以上現実を奪われたくないと考えたから、そのためになんとかしようとしているからなのではないか、と何周もこのアルバムを聴いた今ちょっと思う。また、ただそこにある現実がデジタルに介入されることなくそのまま存在していてほしい、「スティグマ」なしでそのまま受け入れられてほしい、という願いにも思える。

それが特に表れていると感じたのが、『戦争がはじまる』で歌われる、
<それは壁じゃなくて/開かない窓>
<それは石じゃなくて/割れない卵>
というフレーズだ。これは、本当は「開かない窓」なのに「壁」だと思われてしまっている、本当は「割れない卵」なのに「石」だと思われてしまっている、ということで、それはつまり現実が正しく伝わっていない、偏見によって誤解されてしまっているということなのではないかと思う。
そしてそれがピープルが現時点で認識しているこの世界の現状なのだろうし、これから先、人間は、自分の半分を失いながら、電磁波に囲まれながら、正しいのか正しくないのよく分からないデータの洪水を浴びながら、壁のように見える開かない窓を、石のように見える割れない卵を、偏見を排除して見極めることができるようになるのか、という問いかけにも聴こえる。

おそらく私は、開かない窓や割れない卵を見極めようとして、これからも People In The Box の曲を聴くだろう。何もかも奪われそうになったとき、現実をこの手にとどめておきたくて、何度も何度もカセットテープを巻き戻し、People In The Box を聴くだろう。この音楽が響いた後に割れた地面の間から咲きこぼれた花が放つ、スマート製品の中にはない、言葉にできない匂いが、私を現実にとどめてくれるに違いない。


[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

スプートニクの恋人 (講談社文庫) [ 村上 春樹 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2023/11/8時点)


syrup16g Tour 20th Anniversary “Live Hell-See”

syrup16g Tour 20th Anniversary “Live Hell-See” が、2023年6月1日から7月13日まで全10箇所で開催された。

2003年にリリースされた 4th Album『HELL-SEE』の20周年を記念して開催されたこのツアーでは、当時と同じように本編は『HELL-SEE』をアルバムの曲順のまま15曲演奏するというスタイルで行われた。
そのため、次にどの曲をやるのかということは予め分かっていたのだが、にも関わらず、曲がはじまるたびに自分でも驚くほど興奮した。それは懐かしいからとかではなく、曲が始まるたびに『HELL-SEE』の曲のかっこよさに改めて気づいていったからだと思う。

アルバムの1曲目『イエロウ』のあのイントロが鳴った瞬間、20年前の心象風景が呼び起こされると同時に、今でも、というか今だからこそ瑞々しく鋭利に響くその音に、身体も心も今この瞬間の syrup16g に飲み込まれていった。

続いて『不眠症』という五十嵐隆の声だからこそ輝く繊細かつ大胆なロックナンバーが2023年のフロアに響きわたり、アルバムと同タイトルの『Hell-see』が20年前よりさらにひどくなったこの世界にずっしりとその存在感を残していく。『末期症状』『ローラーメット』ではドラムの迫力とくっきりと際立つベースラインの唯一無二さに、そういえばこのアルバムはベーシスト・キタダマキが本格的にレコーディングに参加し出した作品だったということを思い起こさせた。

『I’m 劣性』では <30代いくまで生きてんのか俺> を会場によって<50代いくまで生きてんのか俺> や <30代いくまで生きてたよ俺> などと変えて歌っていた。当時この曲を聴いていた頃は、こういう歌詞の曲って若くなくなったときにどうなるんだろうと考えたことがあったが、結果的にそんなことは杞憂に終わった。この曲の投げやりで鋭角に食い込んでくるかっこよさと <50代いくまで生きてんのか俺> <30代いくまで生きてたよ俺> などに含まれるユーモアが意外なほどマッチしていたからだ。それは今の syrup16gが鋭さと柔らかさを兼ね備えているからこそ実現できたことなのかもしれない。

また、『(This is not just)Song for me』が優しさと憂いを浮かべながら美しいメロディーを運んできたときには、このツアーのSEでずっと流れていたジョージハリスンとこの曲は近いところにあるのかもしれないと、ふと思った。うまくは言えないが、両者に共通する不思議な力強さを感じた。

『月になって』という静謐で究極に美しい曲が奏でられたかと思えば、このアルバムのある種のハイライトとも言える『ex.人間』が華麗に炸裂し、私のテンションは静かに爆発していった。

そして『正常』である。
『正常』は、2008年に武道館で行われた解散ライブでその凄さに気づかされた曲だった。あの日、『正常』を聴きながら、こんなに凄い演奏をするバンドがなんで解散なんてしなきゃいけないんだろう、とものすごく悔しい気持ちになったのだが、今回のツアーの、特に横浜で見た『正常』は、あの日を超えてくるくらいものすごい演奏だった。ドラムの迫力と底から這い上がってくるようなベースだけでも胸にくるものがあったし、そこに乗る五十嵐隆のギターと歌は宇宙まで届きそうなほど神がかっていた。そして、今のsyrup16g はあの頃よりもずっとバンドとしての一体感と艶やかさを増しているという事実を見せつけられた。

続く『もったいない』は、今回のライブの中で一番グッときた曲だった。なんというか『HELL-SEE』というものに込められた業がここですべて放出されたように感じた。

『Everseen』でめちゃくちゃに盛り上がり、『シーツ』「吐く血』というヘヴィーな曲を経て、ラストに辿りついた『パレード』では、12弦ギターの音が美しすぎて感動した。当時はこの曲にさみしさばかりを感じていた私だったが、今回のツアーでは不思議な暖かさも感じた。

アンコールでは最新アルバム『Le Mise blue』から3曲が日替わりで演奏されたのだが、豊洲で聴いた『うつして』には胸をうちぬかれた。五十嵐の「あーーーーーーーうつして ーーーー」という叫びが本当にとんでもなかった。私の心は自分でもびっくりするほど震えていた。私をこんな気持ちにさせるのは、やっぱり syrup16g しかいないと思った。

2回目のアンコールではそれ以外の過去の曲から、こちらも日替わりで3曲演奏された。横浜では『ソドシラソ』『天才』『リアル』という流れだったのだが、これがキレキレで本当にやばいかっこよさだった。3人ともかっこよかったし、バンドとしての噛み合い方も最高だった。

そういうわけで、今回のツアー “Live Hell-See”を通して感じたのは、『HELL-SEE』は syrup16g にしかつくれない、syrup16g にしか出せないロックのかっこよさが渦巻いているアルバムだということだった。『HELL-SEE』以前にこんなかっこよさのアルバムはこの世に存在しなかったし、『HELL-SEE』以後もそんなアルバムは syrup16g 以外には誰もつくれていないという事実を突きつけられた。

また、『HELL-SEE』リリース当時は、レコーディングにもライブにも参加していたとはいえ、「メンバー」というよりは「サポート」という立ち位置だったキタダマキが、再始動後はメンバーとして活動し、そしてこの “Live Hell-See” という旅の中で、誰が欠けても成り立たないsyrup16gというスリーピースバンドを、3人が3人で確かなものとして育てたのだという風に感じた。あの頃の不安定な syrup16g にはあの頃にしかない魅力が確かにあったが、今の syrup16g の安定して凄まじいライブでの演奏は、ロックバンドとして世界レベルなんじゃないかと時々思う。
また、そんな今の syrup16g の中でギターを掻き鳴らし歌う50代の五十嵐隆は、不思議なことに30代の五十嵐よりもロックスターに見える。ずっと目を閉じたり伏せたりして歌ってきた五十嵐が、今回は稀に目を開けていた瞬間があったことも、うれしい変化だった。

ロックバンドの凄まじさと業に唸らされる瞬間、音楽の豊かさに満たされる瞬間、音楽の楽しさに興奮させられる瞬間、誰にも見せない心の窓の中にあるものを交換する瞬間、そんないくつもの奇跡のような瞬間に溢れた“Live Hell-See”だった。そして、今までのsyrup16gもずっと好きだったが、今のsyrup16gが一番好きだと思った、そんな幸せなツアーだった。


[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

Syrup16g シロップ16グラム / HELL-SEE 【CD】
価格:2,024円(税込、送料別) (2023/7/29時点)



[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

Les Mise blue [ syrup16g ]
価格:3,282円(税込、送料無料) (2023/7/29時点)