今から22年前、「透明な音」というものが存在することを初めて知った。
ART-SCHOOL のファーストアルバム『Requiem for Innocence』を聴いたときだった。
透明な音、そのクリーンの爆音は、まさに「イノセンス」だった。
ポータブルCDプレーヤーの再生ボタンを押してその眩い透明な音が溢れ出すと、虐げられてきたイノセンスが次々と解放されていった。
< ねぇ 今から 美しい物を見ないか? >
そう言って始まるこのアルバムは、すぐに < 僕らはただ 失っていく > し、美しい物は < シャボン玉が舗道に落ち 砕けた瞬間 > の <刹那> にしか存在しないのだと知らされる。
そう、『Requiem for Innocence』には 「刹那」しかない。
ずっと急いでいて、バンドは叩きつけるように演奏し、木下理樹は性急に叫び、その「瞬間」はすぐに過ぎ去ってしまう。< 夏に咲く あの花は腐った> し、< 君が吐いた白い息 > は次の瞬間には跡形もなく消えてしまう。
出会って、その場しのぎで傷を舐め合う。
だが、決して本質的につながることはできない。
< 硝子の向こう 手を伸ばした だけど触れもしなかった >
< 手を伸ばして 触ろうとして 音も立てず崩れた >
いつだって手を伸ばして触ろうとすると、その瞬間に失ってしまう。
「刹那」にしか存在せず、「刹那」にしか感じることができない。
それは、まるで音楽そのものみたいだ、と思う。
特にライブがそうだ。数千円払って、一夜にして消えていく。
演奏するそばから、音はやがて消えていく。音はそのわずかな空間と時間、刹那にしか存在しない。物理的なものは後には何も残らない。
だけど、その刹那の輝きが、一瞬の温もりが、何もない人生の中でどれだけの灯火になってくれただろう。『Requiem for Innocence』を聴いていると、その「刹那」が音楽を愛してしまった者にとってどれだけ美しいものかということを再認識させられる。
このアルバムの中の「僕」は、<あどけなく笑って> とイノセンスを君に求めながら、自らは汚れていく。だが、その汚れさえ音が洗い流していけば、いつの間にか美しさに変わっていくのだ。その「刹那」は、少なくとも私にとっては、いつだって信じられるものだった。
あの頃、狂ったように聴いて、狂ったように焦がれていたアルバムラストの『乾いた花』は、今聴くとその「刹那」が極まりきってはじけていた。
< 繋がれていたいよ > < 生き残っていたいよ > という願いにすら < 今日は > という期限が付されていて、僕たちに明日はなかった。でも、だからこそ、この曲はやっぱりどこまでも美しかった。あんなに叩きつけて、あんなに叫んでおきながら、最後はそっと音を置いていくみたいに終わるところまで、すべてが美しかった。
ゴミ溜めの中のゴミは、今日も刹那でしかない音楽に助けられて生き延びる。その透明な音に手を伸ばすとき、絶対に触れることなんかできないのに、美しさで満たされる。そして、生きていけるわけではないが、一瞬だけ <生きて行ける 気がして >、解き放されたイノセンスを給水塔の縁の上に置いた。