春から夏になった。
季節の移り変わりにも鈍感になってしまった生活の中で、2021年にも春があって夏が来たことを知らせてくれたのは、A_o の『BLUE SOULS』だった。
『BLUE SOULS』は、今年4月にポカリスエットのCMソングとして流れ始めた。だが、この時点では A_o は「二人組のアーティスト」であるということしか公開されていなかった。その後、A_o のメンバーはアイナ・ジ・エンド(以下「アイナ」)とROTH BART BARON であることが明かされ、『BLUE SOULS (spring)』が配信リリースされる。なぜタイトルに (spring) がついているのかといえば、『BLUE SOULS』という曲は夏に向けて進化していくからだという。そして、その予告通り、7月になると進化した『BLUE SOULS』が再びCMで流れ出し、先日 Full ver. として配信リリースもされた。
この二つの『BLUE SOULS』、春にリリースされた spring ver. と、夏にリリースされた Full ver. を両方聴いてみると、本当に曲が春から夏へと変化していることに驚かされる。
まず、spring ver. の方は、わずか1分20秒の、アコースティックギターと歌のみで構成された実にシンプルなバージョンなのだが、そのギターと歌からは新学期を思わせるような緊張感やぎこちなさや硬さが醸し出されている。それゆえ、ここで描かれている「BLUE」とは、成熟する前の果実のような青さや、何かを始めたばかりの人が持つ青臭さといったものなのだと思った。
それに対し、Full ver. の方は、歌い出しのアイナの声がもう夏だった。太陽がギラギラと輝く真夏の炎天下で、うだるような暑さの中で歌っているかのような声だった。また、ギターの音や鍵盤の音は、太陽の光を反射させてキラキラと輝く夏の海を思わせたし、ドラムの音は青々と茂る草原や大地の息吹のように感じられた。そこでは、春にあった緊張感やぎこちなさや硬さは消えていて、いつの間にか世界や景色に馴染んでいる様子が感じられた。
つまり、春バージョンでは人間の中にある「青さ」が描かれていたのが、夏バージョンでは海や空や草原といった景色としての「青さ」の方が濃く描かれるようになっていた。春から夏へと移行する間に、「BLUE」が意味するものもまた変化していたのだ。
その変化は歌詞にも表れていた。
3分17秒ある夏バージョンでは、春バージョンの歌詞の前後に新たな歌詞が追加されているのだが、その中で人間の内部から景色へと「BLUE」が移行していくことが伺える部分があった。それは、春バージョンの歌詞に既にある <目に映るもの全てを/青色に染めてゆく> というフレーズと、夏バージョンで追加された <目に映した全てを/“青色”は憶えている> というフレーズだ。
春バージョンからある <目に映るもの全てを/青色に染めてゆく> というフレーズでは人間が主体になっているのに対し、夏バージョンの <目に映した全てを/“青色”は憶えている> というフレーズでは「青色」が主体になっており、そこではまるで人間の体験や感情を、海や空といった自然や景色、あるいはポカリスエットといった物に、放り投げて託しているかのように見えるのだ。
そして、注目すべきは、夏バージョンにおいて、曲の中での一番のスポットライトが、この <目に映した全てを/”青色”は憶えている> というフレーズに当てられているという点だ。
このフレーズに入る瞬間、それまで鳴っていた音は鳴りを潜め、ごく小さな音を奏でる鍵盤の音をバックに二人の歌声が響く。そのわずかな時間は、真夏の白昼に木陰で感じる一瞬の静寂や清涼のようだ。その自然がもたらすかけがえのない夏の一瞬に、A_o はスポットライトを当て、その中で人間の内部にある青さを自然や景色の青さの方に託すという、ある種の儀式的なことを行っている。そして、その儀式のようなフレーズの後に再びドラムやトランペットの音が入ってくると、青さを纏った風が吹き抜けていき、それまでよりもずっと大きくて柔らかな自然に包まれているかのような感覚に陥るのだ。
CMの内容から考えても、『BLUE SOULS』の「BLUE」の中には「青春」という概念も含まれていることはまず間違いないだろう。しかし、春バージョンを経て進化した夏バージョンの『BLUE SOULS』を聴くと、この曲が描いているのは、単にそこにある「青春」やかつてそこにあった「青春」ではなく、一人一人の中にある「青春」や「青さ」といったものが、自然や景色の方に全て投げ込まれていく様なのだということに気づかされる。
「青春」の中ですぐに消えていってしまうような瞬間、例えば、<声を放って しまったなら/きっと君に 届いてしまうはずなんだ> という臆病と思慮深さが混在していた瞬間も、<君が笑うかわからない/でも“こころ”が揺れた> という不確実なものと確信めいたものが同時に訪れた瞬間も、その何もかもが景色の中に投げ込まれ、吸い込まれていく。だが、それは景色の中に消えていくということではなく、たくさんの繊細で複雑な感情も微かに光っていた瞬間も、自分ではなく自分を取り巻いていた自然や景色の方がきっと憶えていてくれるはずだという、いわば人間よりも自然を信頼するというスタンスなのだと思う。
そんなスタンスで「青春」を扱った曲を聴いたことは、これまでなかったように思う。
人間の中にある青さを自然や景色の方へ投げ込むなどというダイナミックでアクロバティックなことを、<目に映した全てを/”青色”は憶えている> というたったひとつのフレーズによって引き起こしてしまうなんて、とんでもない曲だと思った。
また、春から夏にかけて進化するこの曲によって気づかされたことは他にもある。
曲が進化していく過程を公開するということで言えば、A_o 以外でも、ドレスコーズが今年の4月から6月にかけてアルバム『バイエル』を進化させていったことは記憶に新しい。最初に配信された『バイエル(Ⅰ.)』はピアノによるインスト曲だったのが、『バイエル(Ⅱ.)」では弾き語りに成長し、『バイエル(Ⅲ.)』ではギターとドラムの音が加わり、6月に完成版として新たなボーカルトラックや様々な楽器の音が加わったものが公開された。
このような「進化していく曲」を聴くことが私たちに何をもたらしたのか。
それは細部への注目だと思う。
私たちはこれらの曲を聴くとき、以前に公開されたものから、どこが変わったのだろう、どこが進化したのだろうというところに注目して聴くことになる。どこにどんな音が追加されたのかを探し、それがどんな意味を持つのだろうかと考える。
そうやって作品を鑑賞することは、最近のネタバレを過剰に避ける鑑賞の仕方とは対極にあるもののような気がした。最初のバージョンが公開された時点で、ある程度ストーリーや概要は既にネタバレしているわけだが、にもかかわらず、その後に公開されるバージョンに対しての興味が削がれることはない。それは、曲や作品の価値というのは、ストーリーや概要とは別のところで、細部にどんな音が鳴っていて、その音がどんな空気を醸し出しているかというところにこそあるからなのではないかと思う。細部に作り込まれたものがあり、私たちがそれに耳を傾け感じとることができれば、ストーリーが明かされていようがいまいが楽しめるものなのだ。
『BLUE SOULS』の中で、アイナの声は毎秒表情を変えていく。そこにROTH BART BARON、三船雅也の声が美しく混ざっていく。その二人の声は、どんなストーリーの歌詞を歌っているかということ以上に、太陽の角度が変わっていくこと、天気が変わっていくこと、季節が変わっていくことを、私たちに刻んでいく。細部の表現が、ストーリーを超えていく。
今年も、本当に、春から夏になった。
※ この文章は 2021年8月2日に「音楽文」に掲載された文章を加筆・修正したものです。