People In The Box 『Camera Obscura』

バランスが変わった。
それが『Camera Obscura』を聴いた後、最初に抱いた感触だった。

2023年5月、約4年ぶりにリリースされた People In The Box(以下「ピープル」) の 8th Album『Camera Obscure』。
このアルバムは、寓話と隠喩によって強烈に現実を炙り出してきたこれまでの People In The Box の作品とは少し感触が異なる。今作においても寓話や隠喩はそこかしこに存在しているのだが、その隙間に剥き出しの現実がぼこぼこと乱立している。そのため、寓話と現実のバランスがこれまでと変わったように感じたのだ。そして、その炙り出すまでもなく乱立する「剥き出しの現実」は、まるで地響きの後に割れた地面の間から咲きこぼれた花のような生々しさと美しさと悲しさに満ちている。



『Camera Obscura』というアルバムタイトルや『水晶体に漂う世界』という曲名からも窺えるように、今作でも「視線」や「見る」「見られる」ということがひとつのテーマになっていることはまず間違いなさそうだ。「今作でも」と書いたのは、前作の『Tabula Rasa』においても「視線」がテーマのひとつだったからだ。そういう意味では『Camera Obscura』は『Tabula Rasa』の地続きにある作品だと言えるだろう。しかし、『Tabula Rasa』では当初自分が「見られる」側であったのが最後には「見る」側に反転して終わるという構造になっていたため、そこにはある種の希望があるようにも思えたのだが、『Camera Obscura』ではそうはいかないようだ。

まず、『Tabula Rasa』では「見る」主体となった自分というものが、『Camera Obscura』では最初から揺らいでいる。
だって、1曲目が『DPPLGNGR』なのだ。
ドッペルゲンガーとは、自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、自分とそっくりの姿をした分身のことも指す。しかも曲名の『DPPLGNGR』は、ドッペルゲンガー「DOPPELGANGER」という単語から母音が失われた、子音のみの表記になっている。この2点だけを見ても、すでに自分というものの半分が失われてしまっていることが窺える。ドッペルゲンガーによって、自分を構成していた母音のような部分が完全に失われてしまったのだろう。(※1)
そしてそれは、私に村上春樹の小説『スプートニクの恋人』に登場する「ミュウ」という人物を連想させる。「ミュウ」はある時、異国の遊園地の観覧車の中からドッペルゲンガーを見てしまったことで自分の半分を失い、性欲を失い、髪の毛が真っ白になってしまう。
この曲の最後の <また会えたね/別人だよ> というフレーズでは、<別人だよ> で突然声が本当に別人になったかのように変わるのだが、その唐突さと呆気なさと恐ろしさが、また私に「ミュウ」の幻影を見せる。髪の毛を黒く染めた「ミュウ」がどんなに見た目は以前と同じように見えたとしても、自分を半分失ってしまった者にとってはもはやそれは自分とは言えない「別人」なのだと、「ミュウ」にそう語りかけられているような気がしてくる。
また、2曲目『螺旋をほどく話』に登場する <表面上は前と同じさ> というフレーズからも、自分の中身が以前とは完全に違うものになっていることが示されているように思う。

では、『Camera Obscura』の中の人物は、一体なぜドッペルゲンガーを見てしまったのだろうか。
1曲目『DPPLGNGR』の冒頭から、<意味などないのに/気にしてしまうよ/あの視線を> と、「視線」というワードが提示されるが、この人物が「気にして」いる「あの視線」とは、ドッペルゲンガーからの視線のことなのだろうか。だが、この段階では、視線がどこからどこへ向かっているのか、どういったものなのかといったことは、まだ曖昧でよく分からない。(※2)
2曲目『螺旋をほどく話』では <視線や憂いは在ない幽霊さ > と、一旦視線の存在を否定してみせるが、それでもやはり常にどこからか視線を感じる。その後、戦争がはじまり、経済が石化し、スマート製品に人生を奪われ、そうこうして辿り着いた8曲目の『水晶体に漂う世界』を聴いたとき、ゾクっとした。視線の正体がなんとなく分かってしまったからだ。

< 視線を感じて振り返る、ララララ
ローリング、サウンド、カメラ、セット、アクション >

ドッペルゲンガーは自分が所有しているスマート製品の中にいる自分なのではないか、という考えが一瞬過ぎったのだ。
そう考えると、ここで言う「視線」とは、スマート製品のカメラに映る自分からの視線のことなのだろうか。
だとすれば、ドッペルゲンガーの問題は『Camera Obscura』の中の人物や「ミュウ」だけの話ではとどまらない。スマート製品を所有している私たち全員の問題だ。
私たちはスマート製品と生活を共にするうちに、いつの間にか自分の中身をスマート製品に明け渡してしまった。その結果、自分の半分は現実にいるが、もう半分はデジタル上、スマート製品の中(カメラロールやSNS等のネット上)にいる、という奇妙な現象を立ち上げてしまった。それはまさに自分の母音をスマート製品に奪われている状態であり、自分を半分失っている状態と言えるだろう。

だから、この曲には太陽の光に溢れた牧歌的なイメージを感じるにも関わらずどこかにずっと不穏が漂っているし、 <液晶は指に溶ける> というフレーズには、スマート製品の中に自分が吸い込まれていってしまうような怖さを感じる。そして、最後に <ステイ、気づかないふりをしていろ > と何度も言っているのは、気づいたことがバレてしまったら、こちら側の自分があちら側の自分に回収されてしまうからなのだろう。青空が広がる晴れた平和な白昼に、私たちはこちら側の自分まで奪われてしまいそうになる。そのことに気づいたとき、この曲の牧歌的な明るさは、まるで本当に危険なものは便利さや快適さや分かりやすさといった明るいものとして近づいてくる、と言っているかのようだと思った。

だが、ピープルは最後にそれを食い止めようとする。
『水晶体に漂う世界』の次の曲であり、アルバムの最後の曲である『カセットテープ』で、こちら側の自分があちら側に回収されてしまわないようになんとかしようとして、<窓の外は磁気の嵐/映画が人類(ぼく)を観ている > とデジタルに取り囲まれ「観られる」側になってしまっている状態から、<カセットをセットして/初めて音楽を聴く> のだ。
なぜなら、カセットで音楽を聴くことは、スマート製品とは関係ない場所に存在する事象であり、スマート製品から音楽も自分も分離させる方法だからだ。それは、再生回数やインプレッションがすぐに反映されて可視化される世界から音楽や自分を引き剥がすことでもあり、<いくら呼んでも返答のない世界> を生きることでもある。本来、答えなんかすぐに返ってこなくていいし、常に誰かの反応や視線なんか気にしなくていいのだ。私たちはただカセットプレーヤーから流れてくる音楽を聴いているだけでいいはずで、<目醒めて夜を待つ/ただそれだけでいて、いいはず > なのだ。

しかし、それでもなお、<意味などないけど/なぜあの視線を無視できない > と歌われるように、視線から完全に逃れることはできない。また、<優しいポルターガイスト/放っておいても問題ないよ> と繰り返し歌われるが、それを打ち消すようにカセットのテープは破損したかのように乱れ、やがて途切れてしまう。それは、ドッペルゲンガーの視線に気づかないふりをして、放って過ごしていても、いつかは捉えられてしまう、という風にも考えられるし、デジタル上にあるデータが劣化することはないが、現実にあるカセットテープや人間はいつか必ず衰え壊れていくということを示唆しているようにも思える。現実の方に存在していた音楽や人間が消滅しても、デジタル上にあるもう半分の音楽や人間は劣化しないまま、そこに存在し続けるのだ。それは改めて考えてみると、やはりちょっと奇妙なことだと思う。

そして『カセットテープ』を聴き終わる頃、この曲が1曲目の『DPPLGNGR』へと続いていることに気づく。
『カセットテープ』の <意味などないけど/なぜあの視線を無視できない> は、『DPPLGNGR』の冒頭の <意味などないのに/気にしてしまうよ/あの視線を> に繋がっているし、『DPPLGNGR』のイントロの磁気のような音やテープが乱れているような音は、『カセットテープ』の後の世界、カセットテープが壊れた後の世界のようにも聴こえる。

どうやら『Camera Obscura』は最後の曲と最初の曲が繋がり循環している世界のようだ。
そう気づいてから、もう一度最初からこのアルバムを聴いてみる。

すると、『DPPLGNGR』の <ここはどこだろう/帰りたいよ> という部分は、カセットテープが壊れずに存在していた世界に帰りたい、という風にも聴こえてくる。1周目に聴いていたときは、「ここ」や「帰りたい」場所がぼやけていたのが、2周目では「あの場所のことではないか」という心当たりが増えてきて、だんだんピントが合ってくるのだ。それから、<また会えたね/別人だよ> というフレーズも、1周目では上記(※1)(※2)の辺りで述べたように「なんらかの理由でドッペルゲンガーを見たことにより自分の半分を失ってしまったのだろう」と感じていたが、2周目では自分の半分どころかもう半分もスマート製品側に回収されてしまった、というようにも聴こえる。

そして『螺旋をほどく話』の <表面上は前と同じさ> を聴いた瞬間、ハッとした。
そう、表面上は、1周目に聴いていたアルバムと2周目に聴いているアルバムは全く同じはずなのだ。録音された同じ曲を同じ順番で聴いている。だが、全く同じはずなのに、循環している構造と1周目で感じたドッペルゲンガーの視線が頭にインプットされた状態で聴く2周目は、1周目とはまるで違うのだ。それは、まさに <また会えたね/別人だよ> を体現している。ヤバい。People In The Box はこれだからヤバい。ゾクっとした。

同じ曲を同じ順番で聴いているはずなのに1周目と2周目は違うし、2周目と3周目も違うし、3周目と4周目も違うし、そうやって私の中に立ち上がる『Camera Obscura』は永遠に変異していく。カセットを何度も何度も巻き戻して繰り返し聴いていけば、テープが擦れてやがて少しずつ音が変化していくだろう。それと同じように『Camera Obscura』も何度も何度も繰り返し聴くたびに、聴いた人の中で変化していく。スマート製品の中で永遠に変化しないデータであっても、人間が聴くことでその音楽は変化していくのだ。

だから、『カセットテープ』の最後のテープが乱れていく音も、今は希望だとも絶望だとも言い切れない。それはいつ聴くか、何周聴くかによって、その人間の中で姿を変えていくだろう。あるときは生々しくそこにある現実として、あるときはデジタルの側に全てを奪われていく感覚として、またあるときは今はまだ想像もつかない何かとして、私たちの中に現れるのだろう。




『Camera Obscura』を最初に聴いたときに感じたバランスの変化、その理由はピープルがこれ以上現実を奪われたくないと考えたから、そのためになんとかしようとしているからなのではないか、と何周もこのアルバムを聴いた今ちょっと思う。また、ただそこにある現実がデジタルに介入されることなくそのまま存在していてほしい、「スティグマ」なしでそのまま受け入れられてほしい、という願いにも思える。

それが特に表れていると感じたのが、『戦争がはじまる』で歌われる、
<それは壁じゃなくて/開かない窓>
<それは石じゃなくて/割れない卵>
というフレーズだ。これは、本当は「開かない窓」なのに「壁」だと思われてしまっている、本当は「割れない卵」なのに「石」だと思われてしまっている、ということで、それはつまり現実が正しく伝わっていない、偏見によって誤解されてしまっているということなのではないかと思う。
そしてそれがピープルが現時点で認識しているこの世界の現状なのだろうし、これから先、人間は、自分の半分を失いながら、電磁波に囲まれながら、正しいのか正しくないのよく分からないデータの洪水を浴びながら、壁のように見える開かない窓を、石のように見える割れない卵を、偏見を排除して見極めることができるようになるのか、という問いかけにも聴こえる。

おそらく私は、開かない窓や割れない卵を見極めようとして、これからも People In The Box の曲を聴くだろう。何もかも奪われそうになったとき、現実をこの手にとどめておきたくて、何度も何度もカセットテープを巻き戻し、People In The Box を聴くだろう。この音楽が響いた後に割れた地面の間から咲きこぼれた花が放つ、スマート製品の中にはない、言葉にできない匂いが、私を現実にとどめてくれるに違いない。


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syrup16g Tour 20th Anniversary “Live Hell-See”

syrup16g Tour 20th Anniversary “Live Hell-See” が、2023年6月1日から7月13日まで全10箇所で開催された。

2003年にリリースされた 4th Album『HELL-SEE』の20周年を記念して開催されたこのツアーでは、当時と同じように本編は『HELL-SEE』をアルバムの曲順のまま15曲演奏するというスタイルで行われた。
そのため、次にどの曲をやるのかということは予め分かっていたのだが、にも関わらず、曲がはじまるたびに自分でも驚くほど興奮した。それは懐かしいからとかではなく、曲が始まるたびに『HELL-SEE』の曲のかっこよさに改めて気づいていったからだと思う。

アルバムの1曲目『イエロウ』のあのイントロが鳴った瞬間、20年前の心象風景が呼び起こされると同時に、今でも、というか今だからこそ瑞々しく鋭利に響くその音に、身体も心も今この瞬間の syrup16g に飲み込まれていった。

続いて『不眠症』という五十嵐隆の声だからこそ輝く繊細かつ大胆なロックナンバーが2023年のフロアに響きわたり、アルバムと同タイトルの『Hell-see』が20年前よりさらにひどくなったこの世界にずっしりとその存在感を残していく。『末期症状』『ローラーメット』ではドラムの迫力とくっきりと際立つベースラインの唯一無二さに、そういえばこのアルバムはベーシスト・キタダマキが本格的にレコーディングに参加し出した作品だったということを思い起こさせた。

『I’m 劣性』では <30代いくまで生きてんのか俺> を会場によって<50代いくまで生きてんのか俺> や <30代いくまで生きてたよ俺> などと変えて歌っていた。当時この曲を聴いていた頃は、こういう歌詞の曲って若くなくなったときにどうなるんだろうと考えたことがあったが、結果的にそんなことは杞憂に終わった。この曲の投げやりで鋭角に食い込んでくるかっこよさと <50代いくまで生きてんのか俺> <30代いくまで生きてたよ俺> などに含まれるユーモアが意外なほどマッチしていたからだ。それは今の syrup16gが鋭さと柔らかさを兼ね備えているからこそ実現できたことなのかもしれない。

また、『(This is not just)Song for me』が優しさと憂いを浮かべながら美しいメロディーを運んできたときには、このツアーのSEでずっと流れていたジョージハリスンとこの曲は近いところにあるのかもしれないと、ふと思った。うまくは言えないが、両者に共通する不思議な力強さを感じた。

『月になって』という静謐で究極に美しい曲が奏でられたかと思えば、このアルバムのある種のハイライトとも言える『ex.人間』が華麗に炸裂し、私のテンションは静かに爆発していった。

そして『正常』である。
『正常』は、2008年に武道館で行われた解散ライブでその凄さに気づかされた曲だった。あの日、『正常』を聴きながら、こんなに凄い演奏をするバンドがなんで解散なんてしなきゃいけないんだろう、とものすごく悔しい気持ちになったのだが、今回のツアーの、特に横浜で見た『正常』は、あの日を超えてくるくらいものすごい演奏だった。ドラムの迫力と底から這い上がってくるようなベースだけでも胸にくるものがあったし、そこに乗る五十嵐隆のギターと歌は宇宙まで届きそうなほど神がかっていた。そして、今のsyrup16g はあの頃よりもずっとバンドとしての一体感と艶やかさを増しているという事実を見せつけられた。

続く『もったいない』は、今回のライブの中で一番グッときた曲だった。なんというか『HELL-SEE』というものに込められた業がここですべて放出されたように感じた。

『Everseen』でめちゃくちゃに盛り上がり、『シーツ』「吐く血』というヘヴィーな曲を経て、ラストに辿りついた『パレード』では、12弦ギターの音が美しすぎて感動した。当時はこの曲にさみしさばかりを感じていた私だったが、今回のツアーでは不思議な暖かさも感じた。

アンコールでは最新アルバム『Le Mise blue』から3曲が日替わりで演奏されたのだが、豊洲で聴いた『うつして』には胸をうちぬかれた。五十嵐の「あーーーーーーーうつして ーーーー」という叫びが本当にとんでもなかった。私の心は自分でもびっくりするほど震えていた。私をこんな気持ちにさせるのは、やっぱり syrup16g しかいないと思った。

2回目のアンコールではそれ以外の過去の曲から、こちらも日替わりで3曲演奏された。横浜では『ソドシラソ』『天才』『リアル』という流れだったのだが、これがキレキレで本当にやばいかっこよさだった。3人ともかっこよかったし、バンドとしての噛み合い方も最高だった。

そういうわけで、今回のツアー “Live Hell-See”を通して感じたのは、『HELL-SEE』は syrup16g にしかつくれない、syrup16g にしか出せないロックのかっこよさが渦巻いているアルバムだということだった。『HELL-SEE』以前にこんなかっこよさのアルバムはこの世に存在しなかったし、『HELL-SEE』以後もそんなアルバムは syrup16g 以外には誰もつくれていないという事実を突きつけられた。

また、『HELL-SEE』リリース当時は、レコーディングにもライブにも参加していたとはいえ、「メンバー」というよりは「サポート」という立ち位置だったキタダマキが、再始動後はメンバーとして活動し、そしてこの “Live Hell-See” という旅の中で、誰が欠けても成り立たないsyrup16gというスリーピースバンドを、3人が3人で確かなものとして育てたのだという風に感じた。あの頃の不安定な syrup16g にはあの頃にしかない魅力が確かにあったが、今の syrup16g の安定して凄まじいライブでの演奏は、ロックバンドとして世界レベルなんじゃないかと時々思う。
また、そんな今の syrup16g の中でギターを掻き鳴らし歌う50代の五十嵐隆は、不思議なことに30代の五十嵐よりもロックスターに見える。ずっと目を閉じたり伏せたりして歌ってきた五十嵐が、今回は稀に目を開けていた瞬間があったことも、うれしい変化だった。

ロックバンドの凄まじさと業に唸らされる瞬間、音楽の豊かさに満たされる瞬間、音楽の楽しさに興奮させられる瞬間、誰にも見せない心の窓の中にあるものを交換する瞬間、そんないくつもの奇跡のような瞬間に溢れた“Live Hell-See”だった。そして、今までのsyrup16gもずっと好きだったが、今のsyrup16gが一番好きだと思った、そんな幸せなツアーだった。


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再考 syrup16g 『 HELL-SEE 』

信じがたいことだが、syrup16g の『HELL-SEE』が発売されてからもう20年経つらしい。
2003年3月19日のリリースからちょうど20年、2023年3月19日には、20周年記念版として『 HELL-SEE 』アナログ版が発売となった。そして6月からは全国10箇所をまわるツアー “ Live Hell-See “ の開催が決まっている。

こんな未来がやってくるなんて、あの頃は想像もしていなかった。
ただ、あの頃から今に至るまで、『HELL-SEE』というアルバムは、折に触れてずっと聴いていた。
syrup16g のアルバムはそのどれもが私にとって特別だったが、
『HELL-SEE』はその中でも際立って独特の感触があった。
明るくもないが暗いだけでもなくて、生々しくリアルだがどこか夢の中のようでもあって、甘くてドロっとしているのに同時に赤く乾いてもいた。

『HELL-SEE』はリリースされた経緯もかなり特殊なものだった。
メジャーデビューした2002年に2枚のアルバム(『coup d’Etat と『delayed』)を立て続けにリリースしたシロップは、次のタイミングでシングルを出すことをレコード会社から求められたのだが、五十嵐はシングルという形態で出すことを拒み、シングルの予算でアルバムをつくるという無茶苦茶なことをやってのけ、その結果『HELL-SEE』は15曲入り1500円という破格の値段でリリースされた。また、本来アルバムをつくれるような予算ではなかったため、スタジオではなくレコード会社の一室でレコーディングしたというのだから驚きだ。

そんな経緯で生み出されたからこそ、この独特のローファイサウンドが形成されたのだろうし、当時から『HELL-SEE』の音やそこに渦巻く世界はあのジャケットの如く赤黒い特殊なオーラを放っていた。それは私のようなファンを強烈に惹きつけ、その代わりと言ってはなんだが、シロップの世間的な評価や立ち位置をメインストリームではなく「異端のロックバンド」といったものにしていったように思う。

だが、あれから20年経った今振り返ってみれば、五十嵐がシングルを出すのを拒んだことは、本当に意味のあることだったと思う。なぜならそれは「切り取り」を拒否することだったからだ。
そもそも五十嵐がシングルを出したくなかった主な理由は、バンドや自分自身の一面だけしか見てもらえないことが嫌だったから、ということらしい。アルバムだと10曲とか15曲といったボリュームでバンドや自分に色々な面があることを見せられるが、シングルだとそうはいかない。その1曲だけでバンドがジャッジされてしまう。それがどうしても耐えられなかったから、なんとしてもアルバムで出したかった、ということらしい。

その「自分の一部を切り取られて判断される」ことを徹底的に拒否する姿勢は、作品をつくり出す人間として実に正しいものだったと、20年経った今、私はより強く実感する。あの頃はまだ twitterTikTokYouTube もなかったが、結局どんなシステムや手段があろうと人間のやることや愚かさはそう変わらないのだということを突きつけられる。あの頃も SNS こそなかったが、人は「人の一部だけを見て都合よく切り取って判断する」ということを平然とやっていたし、五十嵐は作品を出す上でそのことに危機を感じていて、徹底的に拒否したのだと思う。それが本当に正しいことだったと今思うのは、「切り取られると大変なことになる」ということを、あれから20年を経た私たちは芸術家やクリエイターでなくとも知ることになったからだ。「一部だけを見て都合よく切り取って判断する」という愚かな行動がSNSを中心に急激に加速していった先で起きた、アレとかアレとかで。

もしかしたらシングルを出していた方がシロップは売れたのかもしれない。でも、それよりも五十嵐は、自分や自分のつくるものが切り取られずにまるごと存在し、受け入れられることを望んだのだ。

その結果、『HELL-SEE』というアルバムは20年という歳月を経ても錆びなかったし壊れなかった。今も15曲がひとつの生き物のように赤黒く蠢き輝いている。



また、『HELL-SEE』というタイトルは「healthy(健康)」と掛かっているわけだが、この「健康に生きようとすることは地獄を見ること」という一見センセーショナルな定義は、2000年代から現在に至るまで通底して存在する生きづらさやこの社会でなんとかやっていくことの困難さを、実に生々しく言い当てていると思う。

身体的にせよ精神的にせよ「なるべく健康であろう」とすることが行き過ぎた先で、健康でない状態や健康でない人が切り捨てられる、そんな漂白された世界は本当に「健康」と呼べるのだろうか。「健康」という言葉を、アルバムの中の1曲『正常』と言い換えてみるともっと分かりやすいかもしれない。『正常』には <使えないものは駆除し/排除されるよなぁ> というフレーズがあるが、「健康」とか「正常」といった枠を決められてしまうと、そこから溢れてしまった者は排除され、無き者にされてしまう。そして一度枠から溢れてしまうと、その枠の中に再び戻ることはとても困難だ。にも関わらず「健康に生きること」「正常に生きること」のみを強いられるのであれば、まさに地獄を生きるようなものだろう。本来、「健康」というのは人間の一時的な状態で、多面的な人間の一部でしかない。それなのに、「健康」のみが正しいとされてしまうのは随分息苦しいし、生きづらい。

今改めて『HELL-SEE』を聴くと、そうした同調圧力の中でこの作品は「健康」とか「正常」といった概念に対する距離の取り方をなんとか探ろうとしていたのかもしれない、と思う。また、その視点で聴いてみると、『HELL-SEE』はあらゆるものに対する距離の取り方についてのアルバムなんじゃないか、とすら思えてくる。

例えば1曲目『イエロウ』の

< 予定調和に愛を
  破壊に罰を
  誹謗中傷に愛を
  仕事しようよ >

というフレーズは、「予定調和」や「誹謗中傷」との距離の取り方を歌っている(これらと適切な距離を取ることは心の「健康」のために実に大事なことだ)し、

< 死体のような未来を 
  呼吸しない歌を
  蘇生するために
  何をしようか >

というフレーズの後で <イエロウ >(家籠?)と連呼しているのは、未来や歌を蘇生するために一旦家に籠るという、五十嵐流の距離の取り方のようにも思える。

また、2曲目『不眠症』では、人間関係の距離感を間違えてしまった結果、自分の距離感覚がおかしくなってしまった様が <くるったままの遠近法> と歌われているし、7曲目『月になって』では <掴めそうで手を伸ばして/届かないね永遠にね> という地球と月ほどの圧倒的な距離感が歌われている。

そして、この「距離の取り方」に関して特に絶妙な描き方をしていると思うのが、3曲目『Hell-see』だ。

< 戦争はよくないなと隣の奴が言う >
< 健康になりたいなと隣の奴が言う >

この「戦争はよくない」ことと「健康になりたい」ことが同列で、しかも自分が言ってるわけではなく「隣の奴が言っている」という距離感。
「戦争はよくない」に決まっているが、2003年当時は遠くの国の、2023年現在はそんなに遠くもない国の戦争を、誰にも、もちろん自分にも止めることができないという現実と、その戦争に対して自分がどういう距離感でいるのが正しいのかも分からない、この感覚。それは、9曲目『ex.人間』で歌われている <道だって答えます/親切な人間です/でも遠くで人が/死んでも気にしないです> という感覚とも同じものだと思う。「親切な人間」であろうとすることと、どこまで遠くの人のことまで気にかけることができるのかという、その矛盾や距離感の難しさに頭を抱えたり開き直ったりする人間の現実が浮かび上がってくる。
そして、隣の奴の言葉を聞きながら、健康によくないであろうタバコに火をつけるという、アンビバレントなようで今この瞬間の現実の距離感。
これらの「戦争」や「健康」に対する距離感は中途半端なようにも見えるが、どちらか一方に振り切れてしまう方がよほど危険で、私たちは矛盾しながら様々な物事と適切な距離を取らなければ「健康」になんて生きられない。その現実と切実さが、スローで重みのある三人の演奏から滲み出ているように思う。(この『Hell-see』や『正常』に見られる、スローで重みがあって何かが水面下で蠢いているようなところから後半に爆発するという syrup16g 独特のロックのかっこよさが、『HELL-SEE』というアルバムの赤黒い魅力の正体のようにも思える。)

それから、「テレビ」というものに対する距離感も興味深い。

< テレビの中では混み入った
  ドラマで彼女はこう言った
  話もしなくはないわ
それなら最初にそう言って >

< テレビの中では混み入った
  ドラマで彼女はこう言った
  話もしなくはないわ
そこだけ俺も同意した > ( 『Hell-see』)

< ロックスターがテレビの前で
  くるった振りをしてる
ロックスターがテレビの前で
  くるった振りがうまい   > (『ローラーメット』)

メディアによって編集された世界や、現実ではない作られたフィクションであるドラマを見て、「それなら最初にそう言って」とか「そこだけ俺も同意した」とか「くるった振りがうまい」とか、言わば現実の側からツッコミを入れている。切り取り編集され一方的に流されてくる情報にマジレスしている、その姿や距離感にはちょっと妙な感じというか違和感も感じる。でも、だからこそ、『I’m 劣性』で <テレビなんて Burst!> と叫ぶことで、テレビとの距離を離そうとしているのかもしれない。

それに、考えてみれば、私たちは「戦争」や「健康」についての情報もテレビから得ている。特に2003年当時は、911の時のテレビの映像の記憶が鮮明にあった時だ。「戦争はよくないな」とか「健康になりたいな」とか、どこか他人事で、深刻の度合いが違うものを並列にしてしまう感覚は、もしかしたらテレビのよってもたらされたものなのかもしれない。そう考えると、<テレビなんて Burst!> というのは、そういった狂った距離感覚(くるったままの遠近法)そのものに対して吠えているものなのかもしれない。そしてこのときは「テレビ」だったが、今私たちの距離感覚を狂わせているものはほかにも無数にあって、私たちはそれらにマジレスしている自分を客観視し、それらを<Burst> して遠ざけることが必要なのかもしれない。



20年前からとっくに末期症状で、20年前からずっと家に籠っていたかった私には、今もあらゆるものとの距離の取り方がよく分からない。人との距離の取り方も、社会との距離の取り方も、戦争との距離の取り方も、健康との距離の取り方も、SNSとの距離の取り方も、よく分からないままだし、年々ますますよく分からなくなってきている。

そんなとき『HELL-SEE』を聴くと、そこには距離の取り方がよく分からないままのたうちまわっている人間の姿がある。自分の一部だけを切り取られるのなんか絶対に嫌で、全部を受け入れてほしくてのたうちまわる人間の姿がある。そう、五十嵐は『HELL-SEE』において、「よく分からない」状態ではあるが、根幹の部分では何もかも諦めていない。その底の方から湧き上がってくる何かが、今も何もかもよく分からない私を突き動かす。そのよく分からないドロッとしたものと、三人の音が重なったときの何とも言えないかっこよさを感じるたびに、これだから syrup16g というロックは簡単には滅びないのだ、ということを確信する。何十年経とうが、何百回目だろうが、このバンドは私の根幹を突き動かしては、生々しい暖かさを残していくのだ。


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2023年4月30日

4月に聴いていた音楽です。

□「Don't Fade Away」Beach Fossils
□「Seaforth」King Krule
□「Swing(In A Dream)」SQUID
□「FOOLISH AS THEY MAY SEEM.」GLASGOW
□「とがるとらせん。」とがる,らせん。
□「忘れたい」ミツメ
□「フェノメナルマン」cinema staff
□「美しい鰭」スピッツ